第143話

文字数 1,054文字

「確かに……。今、声をかけてもすんなりとは帰りそうもないね」と、紅霧が言いました。

 エナンチオマーの奏多は、ぴったりとした競泳用の水着を着ていました。紺色で脇と肩に黄色いラインが入っています。むき出しの足は太くはありませんが、しっかりとした筋肉がふくらはぎに付いていて、足首がキュッとしまっています。アスリートの足です。そしてリアルの奏多とは反対の足に痣がありました。

 水泳部員たちは順番に台の上に乗り、プールに飛び込むスタートの練習をしています。次々にプールに向かってジャンプし、そのたび水しぶきがあがります。見ていると奏多の順番が来ました。

 飛び込み台で一瞬ピタリと静止したのち、美しい放物線を描いて、水面に向かって飛びました。シャンッと水をきる音がして、指先が水面に吸い込まれると、追いかけるように頭、体、足がほぼ同じ位置に着水して水の中にすべりこんでいきます。腰から下だけで水を叩くように泳ぐドルフィンキックを数回うつと、ぐんっと進みながら浮上してきました。

さらに手で水をひとかきふたかきし、プールサイドに近寄ります。奏多がプールの縁に手をかけて水から上がろうとすると、奏多の前に飛び込んだ部員が奏多を引っ張り上げました。奏多が水から上がると、ふたりで楽しそうに笑い合いながら歩いて行きます。

「へえ……。上手いじゃない!」マスターは音を立てずにパチパチと手を叩きました。
「奏多は関東大会に出場が決まっている。泳いでいるときの奏多は、誰よりも綺麗で誰よりも強い」

 これまでのピュリュの聞き取りにくい小さな声はなりをひそめ、クリアな声が響きました。

マスターはふっと口元を緩めると、なんでもないことのように「そうなんだ」と相づちをうちました。影であるピュリュが奏多を大事に思っている事が、くすぐったかったのでしょう。

 照れるマスターもいいものです。私はうっかりこぼれてしまった笑みを指で隠しました。にやけているところをマスターに見られたら、面倒なことになりますから。

「奏多!」

プールサイドで男子部員が声をかけて走り寄ってきました。プールが一つしかないので、水泳部は男女一緒に練習しているのでしょう。奏多と声をかけた男子部員は、肩のあたりでハイタッチしています。耳元に口を寄せ、一言、二言笑顔で交わし練習に戻っていきました。
 その様子を見ていたピュリュが身じろぎする。

「あいつ。あいつがつけたんだ。あのあだ名」

 ピュリュは長い前髪ごしにプールサイドを睨み、親しげな二人の様子に苛立たしげに肩を強張らせました。
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