第172話

文字数 623文字

『とにかく、帰りましょう』

 意識のない一来には聞こえないとわかっていても、声をかけずにはいられませんでした。抱きかかえた一来は腕にズシリと重く、ぬくもりがありました。

――よかった。生きていますね

 ぐっと足に力を込め飛ぼうとしました。その時、意図せず血だまりに足を入れてしまい、ピチャッと一来の血が足にかかりました。その瞬間、暴力的なほどの精命が、私の体の内に流れ込み爆発しました。力が増幅し私の欠けた影を補ってあっさりと凌駕します。嵐が巻き起こり怒りが私を飲み込みました。

――視界さえも怒りに染まったせいで、愚かにも私は気がつかなかったのです。足元の血だまりにくっきりと残されたエナンチオマーの足跡の中に、踏みつぶされ原型を留めない姿で残されているモノに。もしも気がついたなら、けしてその場に残していくようなことはしなかったのに。申し訳ありません、マミ……

私は一来を抱きかかえると、家々の屋根の上を音もなく飛び、行く時の半分ほどの時間でマスターの家に戻りました。一来が私の腕の中でぐったりしている様子に稜佳が悲鳴をあげましたが、かまっている時間はありません。

一来の上着を脱がせ、客間のベッドに寝かせました。ピンと張った白いシーツが血で汚れます。鮮血というよりは、乾ききっていない黒ずんだ血です。一来の精命はすでに古び、影にしかわからない腐臭を放ち始めていました。出血は止まっています。手首を握って脈を診ると、さいわい心音も呼吸も安定していました。
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