第171話

文字数 1,032文字

横断歩道を往復するしおり糸は、一来が困っている誰かを道の向こう側に連れて行ったことを示しているし、点字ブロックの上の幾重にも重なった糸によって、ブロック上に置かれた自転車を一来がどかしたことがわかります。出会ったばかりのころに、コロッケをもらっていた肉屋にも立ち寄ったようです。

――また肉屋のご婦人に呼び止められたのでしょうかね

糸の道筋は、困っている人を見つけては自然に手助けしている一来の姿を浮き彫りにしていきます。いつも通りの一来の姿に微笑みが浮かび上がってきたものの、すぐにもどかしさが取って代わります。

――いったい一来はどこにいる? 

マミの糸が途切れた場所は、灰色のコンクリートのビルとビルとの狭間でした。飲みかけのペットボトル、コンビニの惣菜が包まれていた脂っぽい紙、アスファルトにこびりついた食べ物の残骸……。曇りのない青空のような一来には、全く似つかわしくない場所です。

 しおり糸の終着点に辿り着くまで時間にして三十分。もしもその三十分が失われなければ、この光景を目にしないで済んだかもしれません。後悔は影にはそぐわない。しかし……、私はため息をもらさずにはいられませんでした。もしも、私が万全であったなら。もしも私がしおり糸の終着点を予測出来たなら……。もっと早くこの場所に辿り着くことが出来たはずです。

――そしてもしも、私が一来に心を寄せていなければ、こんな感情の嵐に飲み込まれることもなかっただろうに

 もしも……、その人間くさい感情が私を苛立たせます。

 やっと見つけた一来は、ビルの裏口らしき階段に腰かけ、壁にもたれかかって眠っているように見えました。金曜日の夕刻だというのに、細く薄暗い路地には通る人もありません。階段の四隅には砂ぼこりがたまっていて、一来の制服も埃で白くなっています。ビルの影になっている石段には夕闇が早くも訪れ、一来の表情はよく見えません。

『一来、大丈夫ですか?』

 人型になりそっと肩に触れました。ぐらりと一来の体が傾き、私の足元に崩れ落ち、慌てて手を伸ばし一来の体を支えます。意識のない一来を、そっと石段に寝かせると、血の気の失せた青白い顔が闇に浮かびました。

『一……来……? 起きてください……』

 むせかえるほどに、一来の精命がきつく香っています。
エナンチオマーはどれほどの血を一来に流させたのだ? 怒りが地の底から湧き上がってきました。地を流させ、奪い、止血もせず放置したのでしょう。階段に血だまりが出来ていました。
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