第30話

文字数 820文字

 意識を失っている識里(しり)稜佳(いつか)は、床に横倒しに倒れています。その横で識里の影が座り込み、すすり泣きました。

「クチナシの香りだ……」

 ふいに一来が呟きました。確かに気が付けば部屋中に、甘い花の香りが充満しています。紅霧の香りでした。

『この香りは、クチナシなのですか?』
「そう。この頭の芯がしびれるようないい香り。クチナシの香りに間違いないよ」
「フラーミィの方がいい香りよ。こんな香り、吹き飛ばしちゃって」

 マスターが口を挟みました。

『承知しました』

 腕を大きく振って部屋全体に風を送ります。窓からくちなしの香りを外に出しながら『マスター、先ほど紅霧を襲ったのはなんの影ですか?』と質問しました。手裏剣のように一斉に紅霧に向かっていった影は、もはやどこにもみえませんが、一体なんの影だったのでしょうか?

「ああ、あの子達はリビングのパキラとかいう観葉植物の葉っぱよ。さっき髪を少し多めにあげたの」

『……葉っぱの影ですか。あの葉っぱの影達は力もありましたし、大分長いこと動いていましたよね……』

 マスターが精命を奮発したのは明らかです。

『マスター……』

 私一人でも、問題なかったというのに。もし心配ならば「私に」精命をくれればいいものを。マスターの名を呼ぶ声に、恨みがましい響きがこもってしまうのは仕方ありません。

「まあまあ、いいじゃないの」

 まったく悪いと思っていない声で、マスターは私の抗議を受け流しました。「結果オーライ、そうでしょ?」というと、スチャッと片手でピストルの形を作って私を撃つ真似をしました。
「そんなことより、識里稜佳さんだろ」一来がひざまずいて、横たわっている識里の本体を覗き込んでいます。「このままだと、どうなるんだ?」

「そういえばそうね、どうなるの、フラーミィ?」
 マスターも知らないのは無理ないことです。鏡の持つ力について、一度も聞かれたことがなかったので、話したことはなかったからです。……マスターの祖母、桐子についても。
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