第205話
文字数 1,723文字
「これって、もしかして……水神様の……湖の水?」
マスターは水が入っていった胸の辺りをつかみました。服はまったく濡れていません。
「水神様はもう少し、アイラを通して下界を見ていたいんだろうさ」
桐子が静かに言いました。そして、苦しそうに息をつくと、うずくまりました。
「桐子、桐子、ああ、大丈夫かい? さあ、横になりなよ」
紅霧が桐子の頭を抱えて、優しい手つきで自分の膝に乗せました。
「ちょっと紅霧、離れなさいよ……」
マスターのささやくような声は、紅霧が桐子へむける、あまりにも優しい眼差しと仕草への戸惑いで揺れています。
「アイラ、説明してやらないといけないね。私はね、もともと死期が近かったんだ。アイラがちょうど日本に来るって決まった頃、病気がわかってね。そのころにはもう、余命宣告を受けるような状態だったんだよ」桐子がしずかに語りかけます。
「え、でも……」
「そう、アイラはもう十六才だね。種明かしが必要かい?」
「もしかして、だから鏡の中にいたの? 時間が止まるから……」
「正解だよ、アイラ。私はね、アイラに触れることが出来なくなるけど、それでもいいからアイラの成長を見ていたかったんだ。アイラがおっきくなって、可愛いお嬢さんに成長するところをね、どうしても見たかった。だから鏡の中に入ったんだ。
そのおかげでアイラの成長を見ていられた。それでもね、鏡の中でゆっくりゆっくり時が過ぎ、病気も進行してきたんだよ。最近じゃあ、痛みもあってね。紅霧が痛み止めを運んできてくれていたんだよ」
――以前に、私が鏡の中から出て来る紅霧を見たのは、薬を持ってきた時だったのですね
「なんで邪魔したんだよ……。あと少しで私と桐子が入れ替わることが出来たっていうのに。入れ替わって、私が鏡に入れば、桐子は好きなだけアイラの側にいて、触れることだってできただろう? それに痛みだって感じないで過ごせたんだ」
紅霧が顔をゆがませる。影も……、泣くのだ……と思いながら、私も自分の胸の痛みに気が付いていました。
「やっぱり紅は、私と入れ替わろうとしていたんだね。私が知ったら、止めると思ったんだろう? だからその目論見がバレないように、一緒に暮らすのをやめたんだね?」
桐子がマスターに手を伸ばすと、マスターは桐子の手を両手でしっかりと握りました。桐子はマスターの顔を見つめ、反対側の手でマスターの顔を撫ぜました。
「そりゃあ、アイラは可愛いさ。だけどね、紅。私はお前のおかげで、寿命の長さを超えてアイラの成長を見守ることが出来た。それで充分なんだよ。そしてね、私は紅が好きなんだ。紅を真っ暗な鏡の中に閉じ込めて、時間を止めて病気の痛みにいつまでも耐えさせるなんてこと、出来るはずがないだろう?」
紅霧の涙が桐子の上に落ちました。涙が桐子の顔にあたってはじけました。小さな水しぶきが桐子から抜け出ていく精命を映して、キラキラと光をふりまいています。
「桐子、依り代を返さなきゃ。桐子の精命が抜けてしまう!」
とつぜん紅霧が慌てふためいて、自分の胸に手をつっこむと、桐子は紅霧の手をそっと抑えました。
「紅、忘れたのかい? 私は紅のマスター様だ。ちょっと話す間くらい精命が流れ出たって、問題ないさ」ふっと紅霧は頬を緩め、目を細めました。強気な物言いはアイラによく似ています。
「黒の鏡を割ったら、白の鏡も割れるって、なんで教えてくれなかったんだよ」
気が緩んだのか、紅霧が少し拗ねたように言いました。黒の鏡を割った後、再び桐子を白の鏡に入れれば、入れ替わりはできなくなるが、少なくとも元通りになると紅霧は思っていたのでしょう。
「そんなこともあるかもしれない、って思っていただけだよ。それに白の鏡が割れるかもしれないと言ったら、紅は鏡を割れなかっただろう? ありがとう、紅。お前のおかげで、アイラを、そして皆を守ることが出来た。ありがとう」
「桐子……」
「紅、私はお前がいなきゃ、ダメなんだよ。一緒にいておくれ」
紅霧が膝に乗せていた桐子の頭をそっと床におろし、胸に入れた手をゆっくり引き抜きぬきます。手に持った依り代を桐子の手に握らせ、「うん、桐子。いつも一緒にいるよ」と言うと影に戻っていきました。
マスターは水が入っていった胸の辺りをつかみました。服はまったく濡れていません。
「水神様はもう少し、アイラを通して下界を見ていたいんだろうさ」
桐子が静かに言いました。そして、苦しそうに息をつくと、うずくまりました。
「桐子、桐子、ああ、大丈夫かい? さあ、横になりなよ」
紅霧が桐子の頭を抱えて、優しい手つきで自分の膝に乗せました。
「ちょっと紅霧、離れなさいよ……」
マスターのささやくような声は、紅霧が桐子へむける、あまりにも優しい眼差しと仕草への戸惑いで揺れています。
「アイラ、説明してやらないといけないね。私はね、もともと死期が近かったんだ。アイラがちょうど日本に来るって決まった頃、病気がわかってね。そのころにはもう、余命宣告を受けるような状態だったんだよ」桐子がしずかに語りかけます。
「え、でも……」
「そう、アイラはもう十六才だね。種明かしが必要かい?」
「もしかして、だから鏡の中にいたの? 時間が止まるから……」
「正解だよ、アイラ。私はね、アイラに触れることが出来なくなるけど、それでもいいからアイラの成長を見ていたかったんだ。アイラがおっきくなって、可愛いお嬢さんに成長するところをね、どうしても見たかった。だから鏡の中に入ったんだ。
そのおかげでアイラの成長を見ていられた。それでもね、鏡の中でゆっくりゆっくり時が過ぎ、病気も進行してきたんだよ。最近じゃあ、痛みもあってね。紅霧が痛み止めを運んできてくれていたんだよ」
――以前に、私が鏡の中から出て来る紅霧を見たのは、薬を持ってきた時だったのですね
「なんで邪魔したんだよ……。あと少しで私と桐子が入れ替わることが出来たっていうのに。入れ替わって、私が鏡に入れば、桐子は好きなだけアイラの側にいて、触れることだってできただろう? それに痛みだって感じないで過ごせたんだ」
紅霧が顔をゆがませる。影も……、泣くのだ……と思いながら、私も自分の胸の痛みに気が付いていました。
「やっぱり紅は、私と入れ替わろうとしていたんだね。私が知ったら、止めると思ったんだろう? だからその目論見がバレないように、一緒に暮らすのをやめたんだね?」
桐子がマスターに手を伸ばすと、マスターは桐子の手を両手でしっかりと握りました。桐子はマスターの顔を見つめ、反対側の手でマスターの顔を撫ぜました。
「そりゃあ、アイラは可愛いさ。だけどね、紅。私はお前のおかげで、寿命の長さを超えてアイラの成長を見守ることが出来た。それで充分なんだよ。そしてね、私は紅が好きなんだ。紅を真っ暗な鏡の中に閉じ込めて、時間を止めて病気の痛みにいつまでも耐えさせるなんてこと、出来るはずがないだろう?」
紅霧の涙が桐子の上に落ちました。涙が桐子の顔にあたってはじけました。小さな水しぶきが桐子から抜け出ていく精命を映して、キラキラと光をふりまいています。
「桐子、依り代を返さなきゃ。桐子の精命が抜けてしまう!」
とつぜん紅霧が慌てふためいて、自分の胸に手をつっこむと、桐子は紅霧の手をそっと抑えました。
「紅、忘れたのかい? 私は紅のマスター様だ。ちょっと話す間くらい精命が流れ出たって、問題ないさ」ふっと紅霧は頬を緩め、目を細めました。強気な物言いはアイラによく似ています。
「黒の鏡を割ったら、白の鏡も割れるって、なんで教えてくれなかったんだよ」
気が緩んだのか、紅霧が少し拗ねたように言いました。黒の鏡を割った後、再び桐子を白の鏡に入れれば、入れ替わりはできなくなるが、少なくとも元通りになると紅霧は思っていたのでしょう。
「そんなこともあるかもしれない、って思っていただけだよ。それに白の鏡が割れるかもしれないと言ったら、紅は鏡を割れなかっただろう? ありがとう、紅。お前のおかげで、アイラを、そして皆を守ることが出来た。ありがとう」
「桐子……」
「紅、私はお前がいなきゃ、ダメなんだよ。一緒にいておくれ」
紅霧が膝に乗せていた桐子の頭をそっと床におろし、胸に入れた手をゆっくり引き抜きぬきます。手に持った依り代を桐子の手に握らせ、「うん、桐子。いつも一緒にいるよ」と言うと影に戻っていきました。