第71話
文字数 1,134文字
『紅霧に聞いたのですか?』
浅葱先生の影は私の質問には答えず、「あの時はありがとう。助かったよ」とだけ言いました。
『まあ、いいでしょう。それであなたは浅葱先生本体をいつまで紅霧の鏡に閉じ込めておくつもりですか?』
「私は完全に入れ替わるんだ。それは、浅葱も望んでいることだからな」
『浅葱先生が影になりたいとおっしゃっていたのですか?』
「あいつは優しすぎるのだ。生徒を守りたいのに、守れない。それどころか自分さえ守れていない。だから代わりに守って欲しいと言っていた。生徒達を」
浅葱先生の影から手を離しました。ジャスミンの風を弱めると、宙を舞っていた書類が勢いを失って床に散らばりました。
キイ、と椅子が軋る音がして、頭をふりながらモンスターママが目を開けました。何が起こったのかわからないのでしょう。黒目が揺れています。人型の私がいる違和感にも気が付きません。
浅葱先生の影は心配そうな表情を素早く顔に貼りつけました。モンスターママの顔を覗き込み、まだ完全に覚醒してはいない瞳を捕らえます。
「大丈夫ですか? 急に倒れたのですよ。血圧でも高いのではないですか……?」
「けつあつ」モンスターママはぼんやりと繰り返します。
「そうですよ。血圧が高いんですよ。血圧のせいで倒れた……」浅葱先生の影は瞳の奥を見つめながら繰り返しささやきました。
「私は血圧が高いから……」モンスターママは頭を下に落とすようにガクリと頷きました。そして頭の重さを支えきれないのか、いつまでも下を向いたまま頭をグラグラと揺らしています。
「さあ……、もう落ち着きましたから、帰りましょう」
浅葱先生の影が背中に手をあてるとモンスターママは、ふらついたものの素直に立ちあがりました。そして背中を押されるまま、ドアの方へと歩いて行きます。
影はドアを開けると、私を振り返って微笑みました。浅葱先生と同じ顔で。浅葱先生が見せたことのない、楽しそうな顔で。
ドアを出ていく二人を見送ると、私は影に戻りました。するりと廊下へ出ると、歩いて行くモンスターママと影の後ろ姿が見えます。昇降口に向かう足取りは、ややふわふわとしていますが、まっすぐに歩いていました。
もう放っておいても家に帰るでしょう。私は小さく息を吐き、廊下に漂う香りに意識を向けました。どこかからか、ほのかに漂ってくるクチナシの香り。香りは消えかかっていましたが、紅霧がまた来ていたのです。私は照明の消えた廊下を滑って、残り香を辿っていきました。
「マズいですね……」
私は唇に手を当てて二つの香りの混ざりあった地点を見つめました。それはDeath Clownのポスター……。その赤い血の染みから、紅霧の香りと一来の精命の香りがただよってきていたのです。
浅葱先生の影は私の質問には答えず、「あの時はありがとう。助かったよ」とだけ言いました。
『まあ、いいでしょう。それであなたは浅葱先生本体をいつまで紅霧の鏡に閉じ込めておくつもりですか?』
「私は完全に入れ替わるんだ。それは、浅葱も望んでいることだからな」
『浅葱先生が影になりたいとおっしゃっていたのですか?』
「あいつは優しすぎるのだ。生徒を守りたいのに、守れない。それどころか自分さえ守れていない。だから代わりに守って欲しいと言っていた。生徒達を」
浅葱先生の影から手を離しました。ジャスミンの風を弱めると、宙を舞っていた書類が勢いを失って床に散らばりました。
キイ、と椅子が軋る音がして、頭をふりながらモンスターママが目を開けました。何が起こったのかわからないのでしょう。黒目が揺れています。人型の私がいる違和感にも気が付きません。
浅葱先生の影は心配そうな表情を素早く顔に貼りつけました。モンスターママの顔を覗き込み、まだ完全に覚醒してはいない瞳を捕らえます。
「大丈夫ですか? 急に倒れたのですよ。血圧でも高いのではないですか……?」
「けつあつ」モンスターママはぼんやりと繰り返します。
「そうですよ。血圧が高いんですよ。血圧のせいで倒れた……」浅葱先生の影は瞳の奥を見つめながら繰り返しささやきました。
「私は血圧が高いから……」モンスターママは頭を下に落とすようにガクリと頷きました。そして頭の重さを支えきれないのか、いつまでも下を向いたまま頭をグラグラと揺らしています。
「さあ……、もう落ち着きましたから、帰りましょう」
浅葱先生の影が背中に手をあてるとモンスターママは、ふらついたものの素直に立ちあがりました。そして背中を押されるまま、ドアの方へと歩いて行きます。
影はドアを開けると、私を振り返って微笑みました。浅葱先生と同じ顔で。浅葱先生が見せたことのない、楽しそうな顔で。
ドアを出ていく二人を見送ると、私は影に戻りました。するりと廊下へ出ると、歩いて行くモンスターママと影の後ろ姿が見えます。昇降口に向かう足取りは、ややふわふわとしていますが、まっすぐに歩いていました。
もう放っておいても家に帰るでしょう。私は小さく息を吐き、廊下に漂う香りに意識を向けました。どこかからか、ほのかに漂ってくるクチナシの香り。香りは消えかかっていましたが、紅霧がまた来ていたのです。私は照明の消えた廊下を滑って、残り香を辿っていきました。
「マズいですね……」
私は唇に手を当てて二つの香りの混ざりあった地点を見つめました。それはDeath Clownのポスター……。その赤い血の染みから、紅霧の香りと一来の精命の香りがただよってきていたのです。