第86話
文字数 1,113文字
「八つの目がある……。へえ、そうなんだ? それで世界はどんな風に見えてるの? ふふっ」
マスターは教室の机の上に右肘を付き顎を乗せ、左手の親指でスマートフォンを繰りながら、とろけるような甘い声で、独り言を言っているように見えます。その視線の向かう先を辿ると……小さな蜘蛛がマスターを見上げていました。見つめあうひとりと一匹……。
「アイラちゃん……?」
違うクラスからわざわざマスターに会いに来た稜佳が、机から二歩離れた位置から声をかけました。が、ひとりと一匹の世界にとっぷりと入り込んでいるマスターには、聞こえないようです。
「アイラちゃん……」「アイラちゃん」「アイラちゃんってばぁ!」
叫ぶように呼ばれると、ようやく顔をあげ、二、三回目をパチパチとしばたきました。
「あら。稜佳じゃない。もっと近くに寄ったら? 話しにくいじゃない」と、めずらしく機嫌よく手招きします。確かにマスターの言うとおり、稜佳の立ち位置は手を伸ばしても届かない場所です。どうしたのでしょう? 私にもわかりません。
「ほら、ほら」じれったそうにマスターがさらに呼びかけると、
「あー、うん」と、稜佳は自分でマスターに声をかけた割には、いかにもイヤイヤといった風情で、半歩近づきました。
「ね、見て! この可愛い目!」
マスターは小さな蜘蛛と再び見つめあいました。
『ふむ』
マスターの言う通り、確かにその蜘蛛の瞳は、クリクリと丸く真っ黒で、可愛らしい。白茶の霜降り状の毛に白い模様が弓形に入り、人の良いおじいさんのあごひげのようにも見え、見方によっては愛嬌があると言えなくもありません。
「マミジロハエトリっていう種類なのよ。ねっ、マミちゃん」
そう稜佳に視線を移したマスターは、稜佳のこわばった表情を見て、マスターはどうしたの? というように首をかしげました。
「ああ! そうか、白い模様があごひげみたいに見えるからオスだと思ったのね? こう見えてもこの子はメスなの。だからマミちゃん、でいいのよ」
マスターはマミジロハエトリの画像を「ほら」と自慢げにスマートフォンに表示しました。さらに画像を指で押し広げスマートフォンの画面いっぱいに拡大すると、手を伸ばして稜佳の目の前に突き付けました。
「そんなに遠くからじゃ、写真が見えないでしょう」
「だ、大丈夫、大丈夫! 見えるから!」
稜佳は悲鳴をあげるように言うと、無理やり唇をもち上げて歯を見せた。見ようによっては笑っているように見えるかもしれません。怯えた目と食いしばった歯に目をつぶれば、ですが。
――なるほど、稜佳は蜘蛛が苦手なのですね――
稜佳のおもしろ……いえ、興味深い表情で、私はようやく合点がいきました。
マスターは教室の机の上に右肘を付き顎を乗せ、左手の親指でスマートフォンを繰りながら、とろけるような甘い声で、独り言を言っているように見えます。その視線の向かう先を辿ると……小さな蜘蛛がマスターを見上げていました。見つめあうひとりと一匹……。
「アイラちゃん……?」
違うクラスからわざわざマスターに会いに来た稜佳が、机から二歩離れた位置から声をかけました。が、ひとりと一匹の世界にとっぷりと入り込んでいるマスターには、聞こえないようです。
「アイラちゃん……」「アイラちゃん」「アイラちゃんってばぁ!」
叫ぶように呼ばれると、ようやく顔をあげ、二、三回目をパチパチとしばたきました。
「あら。稜佳じゃない。もっと近くに寄ったら? 話しにくいじゃない」と、めずらしく機嫌よく手招きします。確かにマスターの言うとおり、稜佳の立ち位置は手を伸ばしても届かない場所です。どうしたのでしょう? 私にもわかりません。
「ほら、ほら」じれったそうにマスターがさらに呼びかけると、
「あー、うん」と、稜佳は自分でマスターに声をかけた割には、いかにもイヤイヤといった風情で、半歩近づきました。
「ね、見て! この可愛い目!」
マスターは小さな蜘蛛と再び見つめあいました。
『ふむ』
マスターの言う通り、確かにその蜘蛛の瞳は、クリクリと丸く真っ黒で、可愛らしい。白茶の霜降り状の毛に白い模様が弓形に入り、人の良いおじいさんのあごひげのようにも見え、見方によっては愛嬌があると言えなくもありません。
「マミジロハエトリっていう種類なのよ。ねっ、マミちゃん」
そう稜佳に視線を移したマスターは、稜佳のこわばった表情を見て、マスターはどうしたの? というように首をかしげました。
「ああ! そうか、白い模様があごひげみたいに見えるからオスだと思ったのね? こう見えてもこの子はメスなの。だからマミちゃん、でいいのよ」
マスターはマミジロハエトリの画像を「ほら」と自慢げにスマートフォンに表示しました。さらに画像を指で押し広げスマートフォンの画面いっぱいに拡大すると、手を伸ばして稜佳の目の前に突き付けました。
「そんなに遠くからじゃ、写真が見えないでしょう」
「だ、大丈夫、大丈夫! 見えるから!」
稜佳は悲鳴をあげるように言うと、無理やり唇をもち上げて歯を見せた。見ようによっては笑っているように見えるかもしれません。怯えた目と食いしばった歯に目をつぶれば、ですが。
――なるほど、稜佳は蜘蛛が苦手なのですね――
稜佳のおもしろ……いえ、興味深い表情で、私はようやく合点がいきました。