第66話

文字数 1,523文字

一来は慌てて紙を顎で押さえましたが、紙の一番上に乗せられていた画鋲の入ったプラスチックケースが落ち、中身が廊下に散らばってしまいました。画鋲は針が細く、手に持つ部分が目立たない小さいタイプです。ポスターの雰囲気を邪魔しないのが利点ですが、床に散らばった画鋲を拾うのには適していません。

 稜佳が転がった画鋲を追いかけました。一来も慌ててしゃがんで、ピンを拾い集めようと手を伸ばしました。すると今度は腕に抱えたポスターが崩れそうになり、慌てて抱え直しました。

「痛っ」

 一来が声をあげました。画鋲の針が一来の指に刺さったようです。ポスターに気を取られたせいでしょう。血が滲み出るのと同時に精命の香りがふわりとひろがりました。そのかぐわしい香りに引き寄せられるように、私は影のまま体を伸ばして一来の指に近づきました。

「フラーミィ! お行儀が悪いわよ!」
「フラーミィ! ジャスミンが香ってるから!」

 マスターと一来の声が重なって響きました。残念。見つかってしまいました。さらに一来は私に血を舐められないように、そそくさと指をポスターにこすって拭き取ってしまったのです。

「あぁっ、枚数に余分がないのに」

 ポスターが血で汚れてしまったのを見て、稜佳が文句を言いました。
 私が舐めていれば、ポスターが汚れることもなかったものを。

 意味は違いますが、もったいない、とそろって睨む稜佳と私の視線から逃げるように「ごめんごめん。じゃあ、貼ってくるからー!」という声だけを残して、一来は走って行ってしまいました。

「さて。じゃあ私達は浅葱先生の所に行きますか!」と、稜佳が言いました。どちらかといえば、私としては、まだほのかに血の香りを残している一来に付いて行きたかったのですが、これも仕事……。仕方ないですね。

職員室に入ると浅葱先生がすぐに気が付き、「やあ、待っていたよ」と言って手招きしました。稜佳があらかじめ約束を取り付けていたのでしょう。  

「先生、胃の調子はどうですか?」
「もう大丈夫だ。ありがとう。心配かけたね」という今日の浅葱先生は、顔色もよく声にも張りがあります。

「よかった。心配していたんですよ。カメのちいちゃんに無事エサをあげられましたか?」軽い調子で稜佳が聞きました。

「うん。帰りが遅くなったからね。いつものエサの他に、バナナもあげちゃったよ」
「えーっ、バナナ? 食べるんですか?」

「うん。うちの子はね、好きなんだよ。パイナップルも食べるよ。ほら、君たちも座ったら。その辺の空いている椅子を借りて」と言いながら、自ら立って椅子を二つ引き寄せてくれました。浅葱先生はなかなか親切な先生のようです。

「じゃあ、早速なんですけど。文化祭の日、体育館の放送設備は使っていいんですよね」
「うん。ミキサーもあるよ。前日にリハーサル出来るから、一度音を出しておこう。当日はステージを使うから、後夜祭の前はあまり準備の時間が取れないんだ。ええっと。スタンドマイクは何本必要?」

「ボーカルのアイラと、コーラスでギターの私、で二本です」
「イヤーモニターは使うかい?」
「あるんですか?」
「うん。ドラム用とボーカル用だけしかないけど。ギターはPAスピーカー(足元に置く演奏者用のスピーカー)」
「じゃあ、それでお願いします」  

 稜佳と浅葱先生は、音響設備について頭を突き合わせ楽しそうに話しているが、音響システムについて全く知らないマスターは、退屈そうに窓の外を眺めています。すると何か面白いものでも見つけたのか、ふいに背すじをのばして、窓の方へ体を乗り出しました。興味を引かれて、私も窓の外を覗いてみました。

(おやおや。これは面白くなりそうですね)私は片眉を持ち上げました。
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