第39話

文字数 1,283文字

「おばあちゃん……」

 主人はしばらく鏡を見つめていましたが、やがてため息をつくと、ちゃぶ台にそっと鏡を置きました。両手で静かに置いたので、コトリとも音がしませんでした。鏡の中で眠っている人物、マスターの祖母である桐子を起こしたくなかったのでしょう。

『マスター……』
「そうね、おばあちゃんは寝てる。いつもと変わった様子はないみたい」
『よかったですね』

「ねえ、おばあちゃんは私がお保育園生の頃から鏡の中にいるわよね……」
『そうですね』

「おばあちゃんは鏡を通して、紅霧に精命を流し込んでいたんだわ。だから紅霧は自由に動ける」
『マスターと同じで、桐子も精命の量が破格ですから、紅霧に精命を与え続けても、時々起きて、マスターと話すこともできるのでしょう』

「でもおばあちゃんは寝ている時間が増えてる。紅霧に精命をあげ続けたせいかしら?」

「さあ……。それはどうでしょうね。何年も維持できていたのですから、急に精命を与えることで体が弱るとは考えにくいですが」

「紅霧はおばあちゃんになりかわろうとしているのかしら?」
『さあ……』

「フラーミィったら、そればっかりね」

 マスターは鼻に皺をよせると、ゴロンと仰向けに転がりました。

『わからないことをいくら考えても無駄です。それよりお暇そうですから、先ほどお助けした分の精命をいただけますか?』

「空気、読まないの? 私、ちょっと機嫌がよくないんだけど」
『影に空気を読めと? 無理です。そんなことよりも契約ですから』
「……わかったわよ」

 主人は寝ころがったまま、制服の胸の内ポケットから小さな銀色の鋏を取り出しました。指を入れる輪の部分には鏡と同じ模様が浮き彫りにされています。

「よいしょっと」重くはないだろうに、掛け声をかけ、ツインテールの片方から毛先をつまみます。3本の髪がまとめてシャキッ、という小気味よい音と共に切られた瞬間を狙ってかすめとりました。

主人にしてみれば、指の上を影が一瞬よぎったと思ったら、手に持っていた髪の毛の切れ端が消え去っていたようなものでしょう。

「ちょっと! フラーミィ、お行儀が悪いわよ」
『マスター、切ったそばから精命が流れていってしまうのです。鮮度が命なのですよ』
「Wishartはwith heart、共にあれ、そして助けよ……」

 主人は私の講釈は聞かず、手の甲で目をおおってつぶやきました。Aila Wishart。Wishartは主人のファミリーネームです。共にあれ、そして助けよ。

 その言葉の響きは、一来という青年を思いださせました。おそらく主人にとっても同じだったのでしょう。

 (ふむ。逆に主人には全く似つかわしくない言葉でもありますね……)私は主人の足からするりと伸びあがり、私自身の姿で主人の顔を下から覗き込むと……、主人が手のひらで私の顔を押しやりました。

「ヒドイ、マスター」

 私はするりと影に戻るとマスターの手から逃れ、柱に背を持たせかけて人型となって寄りかかりました。

 影の私には人の心はありません。ただ人というものは、無駄なことを思い行うものです。私にはそれが、ただただ……面白いのです。
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