第169話

文字数 1,329文字

紅霧はちらりとからかうような流し目を送ってよこし、「話の途中だったね。一来がいないとなぜまずいんだい?」とそれ以上追及せずに話を移しました。
 内心の動揺を察せられ、さらに若造のように情けをかけられるなんて、失態です。思わずジャスミンの香りが漏れ出てしまいました。人間ならば顔を紅く染めているところでしょう。
「それはね」と、マスターが口を挟みました。
「どうやら奏多が依り代のハンカチを返したのは、どうやらヒューマンの冬矢じゃなくて、冬矢の『影』だったみたいなの。ということは、黒の鏡にヒューマンの冬矢が入っていることになるわよね。私達が思っていたよりも、奏多と冬矢が親密だったことを考えると、黒の鏡に冬矢が入った理由は、いじめを受けていた奏多を守るためだと思う」
「へえ。冬矢もけっこういい奴じゃないか」

 紅霧は赤い唇をほころばせました。

「ということは、冬矢を鏡に招き入れたのは、黒の鏡を持っているエナンチオマーってことだね。入れ代わりの儀式をするには、まだ黒い精命(マナ)が足りない。黒の精命がたまったらいつでも本体と入れ替われるようにしておきながら、同時に黒い精命をためる……。うまいやり方じゃないか」

 唇の片端をもちあげ、大げさに感心してみせました。
しかしすぐにその皮肉な笑みをすぐに消して、「だけど冬矢を鏡に入れておくには、精命の量が少ないかもしれない、そうだね?」と問いかけました。

『おそらくは』
「だからエナンチオマーが一来を誘拐した、かもしれないと?」

『そうです。紅霧、あなたがしたように』
「おや、人聞きの悪い事言わないでおくれよ。私は誘拐なんかしてないよ。一来が奏多に精命をやったのは、自分でしたことじゃないか」

 紅霧は不満そうに口の両端を下げてみせました。

「うーん、でもなぜエナンチオマーは一来君の血の精命を鏡に注ぎ込めばいいってわかったのかな?」稜佳が不思議そうに口を挟む。

『ピュリュが影に戻る前に、アイラが精命をあげました。その時、精命が足りなければ僕の血をあげる、と一来が言ったのを覚えていますか? あの時、エナンチオマーはすでに逃げたのだと私達は思っていました。けれど……実際は砕け散った鏡のどれかに潜んで、話を聞いていたのでしょう』

「アイラにはフラーミィが付いているから、手っ取り早い精命補給要員として、一来を狙った……ってことだね」

 紅霧がなるほどと納得したように言って、うなずきました。

『一来が心配ですから、私は一足先にマミのしおり糸をたどって探しに行きます。ですから紅霧はアイラと稜佳をよろしくお願いします。白の鏡を狙って、いつエナンチオマーがやってくるかわかりませんから』

「おや。逆じゃなくていいのかい?」

『マミはあなたを信用しないかもしれません。それに……ここには、白の鏡がありますからね。鏡を守るためなら、紅霧、あなたは死力を尽くしてくれるでしょう。そうではありませんか?』

紅霧はくちなしの香りを漂わせて微笑うと、「お行き」と頭を窓の方へ軽く振って促しました。
『お茶の用意もせずに、申し訳ありません。どうぞ寛いでお待ちくださいませ」

 白い手袋をしたこぶしを胸にあてて一礼すると、私は影の姿にもどり夕焼けの中に身を投じました。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み