35-1.この馬鹿が
文字数 996文字
「いいえ。これ駅前のケーキ屋さんで買ってきました」
「ありがとう。座っててちょうだい」
何度となく訪れている城山苗子理事長の自宅。奥の廊下に向かった苗子理事長とは別に左側のドアを開ける。
白を基調とした明るいリビングルームのテーブルに村上達彦がいた。
「やあ」
「こんにちは」
警戒していることを悟られないよう警戒しながらテーブルに着く。
「この前はどうして逃げたの?」
「逃げてません」
「逃げたよね?」
「逃げてません」
「……」
「……」
「卒業生が訪ねてきてくれるだなんて本当に嬉しいことだわ」
お茶のセットを持って苗子理事長がやって来る。
「それもこんな立派な社会人になって」
「良くしていただいたのだから当然です。僕が留守の間は母のことも気遣ってくださって」
「ご近所のよしみもあるのだもの。これからはもっとちょくちょく顔を見せてちょうだい」
微笑んで頷くその顔に舌打ちしたいのを必死でこらえた。
「巽さんも今年度で卒業するのでしょう」
「そうですね」
「進路は決まったの?」
「さあ?」
「さあって、美登利さんたら」
「それよりケーキを食べませんか。秋の新作を選んできました」
「ああ、そうね」
うきうきと箱を覗く苗子理事長の頭越し、達彦が目を細めて視線を寄越す。
カップを傾けながら美登利は思いきりその目を睨み返した。
「怖い顔するなよ、可愛い顔が台無しだ」
どんな顔も可愛いけれど。
「どういうつもりで苗子先生を丸め込んでまで私を呼び出したので?」
「会いたかったんだよ。わかるだろう」
この馬鹿が、と瞳が嘲る。
懐かしいその表情。やっぱり大好きだ。
「僕がいない間、母を見舞ってくれたりしたんだって? どうしてそんなことするの、同情しちゃった?」
「その口のきき方、相変わらずですね」
達彦から距離を置いて美登利は土手の芝生に座った。
「遠いよ、話しにくいだろ」
「心の距離ってやつです。思い知ってください」
「なんだ、こんなもの? 安心したよ」
思い切り舌打ちされた。それでも可愛い。
「元気そうだね」
「おかげさまで」
「これでもずっと気にしてたんだよ。あんな酷いことしてお詫びもせずにそのままだったからさ」
「……あんな酷いことって、なんのことですか?」
ゆっくりと言葉をかみしめるようにして美登利が訊き直してくる。顔全体で微笑みながら。
「お詫びってなんですか?」