30-8.我慢なんかしなかった

文字数 982文字




 夏がすぎ、そろそろ本腰を入れて受験に取り組まなければならなくなった頃、自宅への河原道を歩いていると土手の芝生に美登利を見つけた。足を投げ出して一人で座っている。

「どうしたの? 兄貴は?」
「苗子先生のところ」
「君は行かないの」
「わたしがいると話しにくそうだから先に出てきた」
「隣に座っても?」
「どうぞ」
 なんともあたりが柔らかくなったものだ。正直に嬉しい。

「予備校へ行くなら受講料を出してくれるっていうのに断ったんですって?」
「ああ」
「大丈夫なんですか?」
「君の兄貴だって予備校になんか行かないだろ。僕だって余裕だよ」
「負けず嫌い」
「まあね」
 唇を歪めて達彦は思い出す。

「君が前に言った通りだよ。奴を馬鹿にしてる、見下してるって。認めるよ、その通りだ」
 美登利が横目に達彦を窺う。
「僕は劣等感の塊でプライドが高いから見下されるのが大嫌いなんだ。だからこっちも見下してやる。おまえなんか俺よりも更に下の人間だろうって」
 少し驚いた様子で美登利は眉を寄せる。
「お兄ちゃんは見下したりしてない」
「わかるよ、今はね」

「タクマが言ってた。村上さん、中学のときにはそうとう悪かったんだってね」
「余計なことを」
「でも、そういう村上さんをお兄ちゃんは選んだんだよ。なに考えてるかわからないし、ちょっとヘンなとこもあるけど、お兄ちゃんは間違ったりしない」

 ――あの子は間違ったことは言わないよ。
 くっと達彦はおかしくて吹き出した。
「いいよね、君たち兄妹はさ」
 信じ切っていて、頼り切っていて、それが当然のように。

 どうして自分にはないものばかりなんだろう。どうして自分が持っていないものばかり輝いて見えるんだろう。
 すぐ近く、触れる距離にそれがあって、我慢なんかしなかった。そうしたかったから。
 くちびるの端に、かすめ取るように短くキスをした。

「……」
 美登利は、目を見開いて自分の指でそこを押さえた。
「なにをしたの?」
 信じられないというふうに達彦を責める。
「ひどい。どうしてこんなことするの」
 ひどい、ひどいと繰り返して涙を浮かべる。
 予想外の反応に達彦はとっさに手を伸ばす。

 その手を、巽が掴んだ。
「見てたよ」
 口元は微笑んでいる。
「この子に触ったね」
 感情のない目。あるいは何かを凍りつかせたように、瞬きもしない。
 ぎりっと手を締めつけられて達彦は唇を噛む。
 こいつ……ッ。
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登場人物紹介

・池崎正人


新入生。持ち前の行動力と運動能力で活躍するようになる。負けず嫌いで男らしい性格だが察しが悪い。

・中川美登利


中央委員会委員長。容姿の良さと性格の特異さで彼女を慕う者は多いが恐れる者も多い。

・一ノ瀬誠


生徒会長。美登利の幼馴染。彼女に動かされているようでいて、実はいちばん恐れられている。

・綾小路高次


風紀委員長。堅物で融通が利かないが、意外な一面を持っていたりもする?

・坂野今日子


中央委員会書記。価値観のすべてを美登利を基準に置き絶対的に従っている。

・船岡和美


中央委員会兼放送部員。軽快なトークが得意。

・澤村祐也


文化部長。ピアノの達人。彼も幼い頃から美登利に心酔している。

・安西史弘


体育部長。際立った運動能力の持ち主で「万能の人」とあだ名される。性格は奇々怪々。

・森村拓己


正人の同級生で同じく寮生。美登利の信奉者。計算力が高く何事もそつなくこなす。

・片瀬修一


正人の同級生。総合的に能力が高く次期中央委員長と目される。マイペースで一見感情が鈍いようにも見えるが。

・小暮綾香


正人の同級生で調理部員。学年一の美少女。

・須藤恵


綾香の親友。大人し気な様子だが計算力が高く、けっこうちゃっかりしている。

・宮前仁


美登利と誠の幼馴染。市内の不良グループをまとめる櫻花連合の総長になるため北部高校に入学した経緯を持つ。

・錦小路紗綾


綾小路の婚約者。京都に住んでいる。

・志岐琢磨


喫茶ロータスのマスター。元櫻花連合総長。美登利たちの後ろ盾のような存在。

・中川巽


美登利の兄。初代生徒会長。「神童」「天才」と称されるものの、人間的に欠けている部分が多い。それゆえに妹との関係を拗らせてしまう。

・榊亜紀子


美大生。芸術に精魂を傾ける奇抜な性格の持ち主。

・村上達彦


巽の同級生。生い立ちと持って生まれた優秀さのせいで彼もまた拗らせている。中川兄妹に出会って一層歪んでしまう。

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