19-1.一年で一番チョコレートが乱れ飛ぶ日
文字数 1,047文字
「なんだこの天気の良さ。泣きたくなるわ」
「空気が薄い……苦しいだろうな」
口々に言い合いながらジャージに着替えて海岸に向かう。
「池崎いいよなあ、走るの得意だろ」
「いや、長距離はちょっと」
それなりに重い気持ちで集合場所で話していると、ひと際どんよりした空気を背負ってやって来たのは、中央委員会委員長中川美登利だった。
「おはようございます」
森村拓己や片瀬修一が声をかけても暗い表情で「うん」と答えるだけだ。
「美登利さん、どうしたんですか?」
「悔しいの……」
彼女のしょんぼりとした顔はそうそうお目にかかれるものではない。
「今日という日を心から喜べないことが」
「?」
「みんなマラソンの苦しさに負けて今日が大事な日だって忘れてるよね」
ああ、と拓己はぽんと手を打つ。
「バレンタインデーですね、今日は」
「そうだよ、一年で一番チョコレートが乱れ飛ぶ日なのにみんな忘れてるよね」
「忘れてませんよ。まずは嫌なことを終わりにしてからって思ってるだけですから」
「そうそう、これが終われば今日は授業もないしさ、教室戻ればたっくさんチョコが待ってるよ」
両側から坂野今日子と船岡和美に励まされている美登利に、遠くから声がかかった。
「なんだいなんだい、中川委員長。三学期で唯一の公式行事だというのに随分非協力的じゃないか」
体育部長安西史弘だ。
「モチベーションアップにどうだい? 勝負といくかい」
もちろん、ここまで言われて黙っている中川美登利ではない。
「いいよ。あんたが負けたら、今日あんたが受け取ったチョコレートを全て私に差し出すんだよ」
「お安い御用さ」
「なら、勝負だよ。池崎くん! あいつを思い切り負かしてチョコを巻き上げてきなさい」
「おれかよ!?」
「男子と女子じゃコースが違うでしょうが。任せたからね」
あほか! と怒鳴ってやりたかったが教師たちがやって来て集合をかけたので反論する間がなくなってしまった。
準備体操の後、浜辺のスタート地点に移動する。
浜辺を二百メートル走ってから防潮堤の階段を駆け上がり海岸沿いを男子は十キロ、女子は六キロ往復するというのが一応のコースだ。
海風に吹かれながらスタートの合図を待っていると安西が正人の腕を取ってぐいぐいとスタートラインの一番前へと押し出した。
「手加減はいらないよ。君とは一度勝負したかったんだ」
そう言われても勝負の必然性を納得できていない正人のボルテージは上がらない。