32-1.心臓をわしづかみ
文字数 993文字
拓己の家に泊っても良かったが女の子だからとこっちにたらいまわしにされてしまった。
「ほんとに旅館だね」
「うん」
拓己について歩きながら感心する。
池崎正人は林道の出口で立ち止まったまま一緒に来てくれなかった。
正面玄関で中川美登利が待っていた。
「すみません急に」
「そんなことないよ、森村のおばさんには聞いてたから」
「……女将さんは奥ですか? 渡すものが」
「うん、入っていいよ」
そこで拓己にも置き去りにされてしまった。
美登利が荷物を持ってくれようとしたがさすがにそれは断る。
「この部屋だよ。何かあったら私に言ってね」
「すみません」
「大丈夫だよ。お盆まではお客さんもそんなにいないし。……明日にはうちの兄も来るし、まあほとんど身内だよね」
「初代会長さん」
「うん、ごめんね。気を使わせちゃうけど」
にこりと笑う美登利はジーンズにシャツという初めて見る姿だがやっぱりきれいで、綾香は本人を前にため息をついてしまいそうになる。
とりあえず荷物を置いて表に戻ると、拓己と正人が待っていた。
「泳ぐのは明日にして、今日は釣りにする?」
「それもいいけど、拓己クンが行ってた小学校とか中学校とか見てみたい」
「あ、いいね。思い出探検隊」
「えー、けっこう遠いよ」
楽しそうに言い合っている拓己たちの後ろを歩きながら正人はそっと振り返る。
誰の姿も見えなかった。
急行電車の中でぽつりぽつりと中川巽は留学中の生活について語った。
とにかく全てのものが大きく思えたこと。自分がちっぽけに思えたこと。そしてそのことに安心したこと。
「空まで大きく広く見えてさ、でもこの空があの子のところへもつながってるんだって思ったら、どこにいたってなにをしてたってやっぱり同じだって覚悟が決まった」
なるほど、だからこの人はこうなのか、と榊亜紀子は嘆息する。
ありのままで全力で開き直ってとにかくオカシイ。
「これでやっとあの子に会えるって思ったのに、すれ違いって言うの? なんか僕、避けられるようになっちゃってて本当に悲しかったよ。友人からは自分が悪いって罵倒されたけど身に覚えがなくて」
我ながらビョーキだとは思うが亜紀子は彼のこんな表情に心臓をわしづかみにされてしまう。
ああ、ダメだ自分。完全に堕ちてしまっている。