32-6.大丈夫

文字数 1,004文字

 ――恋してるときって普通じゃないの。普通じゃなくなるのが恋愛なの。

 そんなのは嫌だ。自分は自分でいたい、自分らしくないのはもう嫌だ。
 そっと、もう片方の手で綾香の頬に触れる。

 ――人を好きになるって、とっても怖いことなのよ。怖いし苦しい、たくさんたくさん涙を流して、気持ちを貫くためには覚悟が必要なこともある。

 そんな恋ならいらない。誰だって優しく楽しい恋がいいに決まってる。

 ――せっかく可愛いカノジョがいるんだから大事にしなよ。

 言われなくてもわかってる。彼女と一緒なら自分はいつも楽しくて、そう、拓己や恵も一緒に楽しく優しい時間をすごせる。

 綾香が目を閉じたのを見て、かすかに胸が痛む。でもそれはどうとでもない痛みで、正人はそのまま顔を寄せる。
 どこまでも優しくくちびるが触れて、やわらかなその感触にすべてを預けようとしたとき、伏せた視線の先にそれが飛び込んできた。

 目を上げる。木立の茂みの隙間に中川美登利が立っていた。泣いている。ふたりを見てすぐに踵を返す。音もなく走り去る。

 綾香は気づきもしなかった。あまりに一瞬の出来事で、正人もまた幻だったのかと混乱する。無意識に頭を押さえて後ずさっていた。
 綾香が不思議そうに正人を見たがなにも言えなかった。

 拓己と恵が戻ってくる。
「どうした池崎」
「今……」
 なんて言ったらいいのかわからない。
「ヘンな奴」
 拓己は笑って早く帰ろうと皆を促した。




 走って走って、気がついたら山をぐるりと抜けて浜辺まで来ていた。
 神社に誰かいたようだがどうでもいい。もうどうでもよかった。
 砂に足を取られてもつれて転ぶ。それでようやく止まることができた。
 肩で息をついて呼吸がいくらか楽になると、また涙があふれてくる。

 もう嫌だ。心なんてなくなってしまえばいい。心底そう思うのに消えてなくなりはしない。こんなにあっけなく心は震えて騒ぎ出す。押し殺しても押し殺しても押し殺しても。

 自分が嫌だ。消えてなくなりたい。ふと思った。人魚姫は海の泡になって消えてなくなることができて幸せだった?
「…………」
 あまりに馬鹿馬鹿しい想像をしてしまって笑いが漏れた。自分らしくもない。この痛みは現実で、現実なら耐えるしかない。

 ――なに、少しずつでもマシにはなってるだろうさ。

(そうだね)
 きっとマシにはなっている。大丈夫、大丈夫。嘘でもいい、そう言い聞かせる。少しはマシな、明日のために。
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登場人物紹介

・池崎正人


新入生。持ち前の行動力と運動能力で活躍するようになる。負けず嫌いで男らしい性格だが察しが悪い。

・中川美登利


中央委員会委員長。容姿の良さと性格の特異さで彼女を慕う者は多いが恐れる者も多い。

・一ノ瀬誠


生徒会長。美登利の幼馴染。彼女に動かされているようでいて、実はいちばん恐れられている。

・綾小路高次


風紀委員長。堅物で融通が利かないが、意外な一面を持っていたりもする?

・坂野今日子


中央委員会書記。価値観のすべてを美登利を基準に置き絶対的に従っている。

・船岡和美


中央委員会兼放送部員。軽快なトークが得意。

・澤村祐也


文化部長。ピアノの達人。彼も幼い頃から美登利に心酔している。

・安西史弘


体育部長。際立った運動能力の持ち主で「万能の人」とあだ名される。性格は奇々怪々。

・森村拓己


正人の同級生で同じく寮生。美登利の信奉者。計算力が高く何事もそつなくこなす。

・片瀬修一


正人の同級生。総合的に能力が高く次期中央委員長と目される。マイペースで一見感情が鈍いようにも見えるが。

・小暮綾香


正人の同級生で調理部員。学年一の美少女。

・須藤恵


綾香の親友。大人し気な様子だが計算力が高く、けっこうちゃっかりしている。

・宮前仁


美登利と誠の幼馴染。市内の不良グループをまとめる櫻花連合の総長になるため北部高校に入学した経緯を持つ。

・錦小路紗綾


綾小路の婚約者。京都に住んでいる。

・志岐琢磨


喫茶ロータスのマスター。元櫻花連合総長。美登利たちの後ろ盾のような存在。

・中川巽


美登利の兄。初代生徒会長。「神童」「天才」と称されるものの、人間的に欠けている部分が多い。それゆえに妹との関係を拗らせてしまう。

・榊亜紀子


美大生。芸術に精魂を傾ける奇抜な性格の持ち主。

・村上達彦


巽の同級生。生い立ちと持って生まれた優秀さのせいで彼もまた拗らせている。中川兄妹に出会って一層歪んでしまう。

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