39-5.お兄ちゃん
文字数 1,123文字
病気のせいだろうか、明らかにおかしい。
「ねえ、覚えてる?」
まただ。春にも同じことを訊かれた。
同じことを訊いているのだ。だけど誠にはなんのことだか特定ができない。
「覚えてるよ」
嘘じゃない。彼女との思い出で覚えていないことなどない。
「約束するから」
かすかにささやいてうとうと寝入ってしまった。
額に張り付いた髪をそっと撫でる。
眠っていることを確かめてから後ろを見る。机の上、ふたつのオーナメントが下がっている。
彼女にしては痛恨の失態だ。こんなものを自分の目に触れさせてしまうなんて。
なにを考えている? 言い知れぬ不安が沸き起こってきた。
最後に巽の夢を見た。枕元に頬をのせて彼女の顔を覗き込んでいる。
夢に決まってる。だって兄は別の女性のところへ行ってしまった。自分のところへ来るわけがない。
思ったら涙があふれてきた。
お兄ちゃん。
「どうしたの? 苦しい?」
苦しいよ、ずっとずっと苦しいよ。
「かわいそうに」
嘘つき、嘘つき。ずっと一緒だよって言ったのに、どうして離れていっちゃうの?
――君から逃げたんじゃないの?
私がおかしいから?
「大丈夫だよ、きっともう良くなるからね」
そんなふうには思えない。どんなに頑張っても自分の心は安らがない。
「あと少しの我慢だよ」
我慢なんかもうできない。
そりゃあ、いちばんの身勝手は自分だ。よくわかってる。
でも現実が、人々の思惑が、重たく感じることがある。
自分が何者なのか、ますますわからなくなる。
「大丈夫だよ、大好きだよ」
苦しい、苦しい。
「お兄ちゃん、ぎゅってして」
巽の両手が布団から伸ばした手を包み込んでくれた。
「泣かないで、大好きだよ」
「うん」
「そばにいるよ、ずっとだよ」
「うん……」
なんていい夢なんだろう。願ってもかなわなかった夢だ。
夢も、果たされた約束も、なにひとつない。だからこそ、なんていい夢なんだろう。
眠った妹の手を布団の中に戻して巽は静かに部屋を出た。
「どんな様子?」
ちょうど階段を上がってきた母に尋ねられた。
「ずっと眠ってる」
「そう。どうしちゃったのかしらね、最近になって寝込むことが多くなって。以前は丈夫な子だったのに」
「疲れてるんだよ、今までよく頑張っていたから」
「そうね……。巽さん、お夕飯は食べていく? 最終に間に合えばいいのでしょう」
「うん」
「お父さんも定時で帰ってくるそうだから」
「それまで部屋で休んでます」
「そうしてちょうだい」
すっかり物の少なくなった自室に入って、巽は床に蹲る。
泣かないで、君が泣くのはなにより辛い。泣かないで。
心はずっとそばにいる。愛してる、愛してる、泣かないで……。