38-4.間違ってみたかった

文字数 1,013文字

「もっとする?」
 びっくりしたまま首を横に振る。
 立ったままこっちを見下ろしている美登利は、くすりと笑って彼の髪を撫でた。
「澤村くんは大丈夫だよ。間違ったりなんかしない。私とは違うもの」
 優しく優しく指が動いて、そして離れた。
「だから大丈夫。怖がらないで、思ったままにやればいいんだよ」

(違うんだ)
 思ったけれど言葉にはならない。
 見上げた彼女は窓からの日差しを受けて、あの頃の笑顔のままで。
 ――きれいな音だねえ。天国から聞こえてくる音楽みたいだよ。
 間違ったりなんかしない、そう言ってくれたけど。
(僕は……)

 間違ってみたかった。間違いでもいいから君に触れてみたかった。憎まれても蔑まれてもいいから、触りたかった。
 でももう遅い。もう届かない。線は引かれてしまった。彼女がそれをするのを自分は黙って見ていた。もうそんな資格はない。

「和美さんがね、私を呼んだんだよ」
「うん……」
「私はもう大丈夫」
「うん」
「ありがとう」
「…………うん」




 練習室を出ると和美が立ち上がって美登利を見た。
「あとはふたりで頑張るんだよ」
 頷く和美に更に謝罪の言葉をかけそうになって、美登利は口を引き結ぶ。
 言わなくたっていいこともある。「ごめんなさい」なんて自分が言っていいことではない。

 芸術館を出て昇降口には戻らず北校舎の階段を上がった。
 学校も自分の居場所ではなくなりつつある。こうやって、手を放せば離れていく。自分の心次第だったのだ。
 兄のことだって、心はこんなに落ち着いている。

 授業中だから屋上は締まっていると思ったのに鍵が開いている。閉め忘れか、何かで使用中なのか。
 扉を開けて見渡してみたら人の気配はない。

 逆に背後に人の気配を感じて美登利は振り返る。
 小暮綾香がいた。
「授業中だよね?」
「先輩がいるのが見えたから」
 開け放った扉から差し込む日差しが綾香の顔を照らしている。静かにじっと落ち着いている瞳、固い口元。
 この表情を自分は知っている。

「どうしてわたしから彼を盗るんですか」
「盗った覚えはないけど」
「わたしのです」
(お兄ちゃんは私の)
「キスだってしてくれた」
(ずっと一緒だよって言ったもの)
「なのにどうして……」
(その人のところへ行っちゃうの)
「わたしがいちばん彼を好きなのに!」

 そういうことかと美登利は綾香の顔を見たまま口元を震わせる。
 なんだ、そういうことなのだ。
 頬が震えて勝手に笑みの形を作った。
「それって嫉妬?」
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登場人物紹介

・池崎正人


新入生。持ち前の行動力と運動能力で活躍するようになる。負けず嫌いで男らしい性格だが察しが悪い。

・中川美登利


中央委員会委員長。容姿の良さと性格の特異さで彼女を慕う者は多いが恐れる者も多い。

・一ノ瀬誠


生徒会長。美登利の幼馴染。彼女に動かされているようでいて、実はいちばん恐れられている。

・綾小路高次


風紀委員長。堅物で融通が利かないが、意外な一面を持っていたりもする?

・坂野今日子


中央委員会書記。価値観のすべてを美登利を基準に置き絶対的に従っている。

・船岡和美


中央委員会兼放送部員。軽快なトークが得意。

・澤村祐也


文化部長。ピアノの達人。彼も幼い頃から美登利に心酔している。

・安西史弘


体育部長。際立った運動能力の持ち主で「万能の人」とあだ名される。性格は奇々怪々。

・森村拓己


正人の同級生で同じく寮生。美登利の信奉者。計算力が高く何事もそつなくこなす。

・片瀬修一


正人の同級生。総合的に能力が高く次期中央委員長と目される。マイペースで一見感情が鈍いようにも見えるが。

・小暮綾香


正人の同級生で調理部員。学年一の美少女。

・須藤恵


綾香の親友。大人し気な様子だが計算力が高く、けっこうちゃっかりしている。

・宮前仁


美登利と誠の幼馴染。市内の不良グループをまとめる櫻花連合の総長になるため北部高校に入学した経緯を持つ。

・錦小路紗綾


綾小路の婚約者。京都に住んでいる。

・志岐琢磨


喫茶ロータスのマスター。元櫻花連合総長。美登利たちの後ろ盾のような存在。

・中川巽


美登利の兄。初代生徒会長。「神童」「天才」と称されるものの、人間的に欠けている部分が多い。それゆえに妹との関係を拗らせてしまう。

・榊亜紀子


美大生。芸術に精魂を傾ける奇抜な性格の持ち主。

・村上達彦


巽の同級生。生い立ちと持って生まれた優秀さのせいで彼もまた拗らせている。中川兄妹に出会って一層歪んでしまう。

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