10-4.好きなら好きで仕方ない

文字数 937文字

 それほど前の話でもないのにどうして忘れていたのだろう。今自分を突き動かしているこの衝動、そっくり同じものを彼にも感じたはずだったのに。どうして忘れていたのだろう。目頭が熱くなる。

(それはきっと)
 好きになってしまったから。あれほど知りたいと思った彼のなにもかもを「見えない」などと思い込もうとしたのは。
 彼を本当に好きだから、怖くなってしまったのだ。その内に踏み込むことが。

(堕落だ)
 好きなら好きで仕方ない。身を売った悪魔に魂まで奪われてしまった。
 それならば。それ相応の見返りを、求めなければ。
(渇望)

 それは命題だと彼は言った。真偽を証明する術など亜紀子にはない。
 ならば受け入れるしかない。彼は最初に言ったではないか。
 ――それさえ呑んでくれたなら。
 彼の影が、見えてくるはず。自分が引き寄せられた、彼の何かが。

「ちょと、あんた何枚描くつもり」
 級友にぺしんとはたかれて我に返った。いつの間にか場所を移動しながら何枚となくデッサンし続けていたらしい。
「ごめんね、このヒトおかしくて。みんながみんなこんなじゃないから。誤解しないでね」
 彼女は困った顔のまま微笑んだ。ああ、ほんとうに可愛い。

「ありがとう。ありがとうねええ。あなたは女神さまだよ。私を開眼させてくれたよ」
「だからやめなって。もう行くよ」
 ずるずると襟首を引っ張られる。
 ぎゅううっとスケッチブックを抱きしめて亜紀子はぶんぶんと見知らぬ彼女に手を振った。




「おーい。終わった?」
 和美たちがチョコバナナを食べながら呼んでいる。
「美大生ってやっぱ変わってるねえ」
「いや、あの人はちょっと、特別な部類みたい……」
「似顔絵描いてもらったんだよね?」
 小宮山唯子が首を傾げる。
「なにももらわなかったの?」
「あ……」
「描き逃げですか」
 坂野今日子が顔をしかめる。
「いや、でも。お金払ってないし」

 やれやれと肩を叩いて、中川美登利は息をついた。
「疲れちゃった。もう帰ろう」
「そうだね」
 船岡和美が同意して美登利と腕を組む。
「美大もおもしろそうだけど、あたしには所詮そこまでの感性がないってことがわかったよ」
「なんの話?」
「和美ちゃんたらプロジェクトマッピングの展示でね……」
「あれはひどいですよ、ほんと」
「だってさー」
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登場人物紹介

・池崎正人


新入生。持ち前の行動力と運動能力で活躍するようになる。負けず嫌いで男らしい性格だが察しが悪い。

・中川美登利


中央委員会委員長。容姿の良さと性格の特異さで彼女を慕う者は多いが恐れる者も多い。

・一ノ瀬誠


生徒会長。美登利の幼馴染。彼女に動かされているようでいて、実はいちばん恐れられている。

・綾小路高次


風紀委員長。堅物で融通が利かないが、意外な一面を持っていたりもする?

・坂野今日子


中央委員会書記。価値観のすべてを美登利を基準に置き絶対的に従っている。

・船岡和美


中央委員会兼放送部員。軽快なトークが得意。

・澤村祐也


文化部長。ピアノの達人。彼も幼い頃から美登利に心酔している。

・安西史弘


体育部長。際立った運動能力の持ち主で「万能の人」とあだ名される。性格は奇々怪々。

・森村拓己


正人の同級生で同じく寮生。美登利の信奉者。計算力が高く何事もそつなくこなす。

・片瀬修一


正人の同級生。総合的に能力が高く次期中央委員長と目される。マイペースで一見感情が鈍いようにも見えるが。

・小暮綾香


正人の同級生で調理部員。学年一の美少女。

・須藤恵


綾香の親友。大人し気な様子だが計算力が高く、けっこうちゃっかりしている。

・宮前仁


美登利と誠の幼馴染。市内の不良グループをまとめる櫻花連合の総長になるため北部高校に入学した経緯を持つ。

・錦小路紗綾


綾小路の婚約者。京都に住んでいる。

・志岐琢磨


喫茶ロータスのマスター。元櫻花連合総長。美登利たちの後ろ盾のような存在。

・中川巽


美登利の兄。初代生徒会長。「神童」「天才」と称されるものの、人間的に欠けている部分が多い。それゆえに妹との関係を拗らせてしまう。

・榊亜紀子


美大生。芸術に精魂を傾ける奇抜な性格の持ち主。

・村上達彦


巽の同級生。生い立ちと持って生まれた優秀さのせいで彼もまた拗らせている。中川兄妹に出会って一層歪んでしまう。

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