20-1.あの日の朝
文字数 1,012文字
でも妹が産まれた朝のことなら覚えている。ぼんやりしていた彼の世界が急に鮮やかに変わったあの日の朝。
目覚めて居間に下りると母の姿はなく、父と祖母が食卓で話をしていた。
妹が産まれたよ。教えられて、目覚めから感じていた違和感の原因はそれだと直感的に思った。
生まれて初めて心が躍った。
簡単な朝食をとり母が入院している産婦人科医院に向かった。
定期検診に一緒に連れられて来たことが何度かある。だが向かったのは足を向けたことのないフロアだった。
しんと個室の扉が並ぶ廊下。奥からスピーカーでも通しているかのように妙に響き渡る不思議な泣き声が聞こえてくる。
空気にさざ波が立つような、よく通る声だ。
父親が先に一人でそちらに行き、やがて台車に乗ったケースのようなものを押して母と一緒にやって来た。
真っ先にケースの中を覗き込んで祖母が言う。
「赤ちゃんはみんなお猿さんみたいなのに、この子はもう人間の顔をしているね」
妙なことを言うなと思って、巽は背伸びをする。よく見えない。
母が笑ってその小さな人間を抱き上げた。
母の片腕にすっぽり収まってしまう小ささ。小さな白い顔の中から黒々とした丸い瞳が空をぼんやり見回している。
「まだ目はほとんど見えてないの、まぶしいのがわかるくらい」
腰を下ろした母の腕の中のものを巽はしげしげと見つめる。触るのは怖い。
母は微笑んで赤ん坊の手に指先で触れた。小さな手が母の指をぎゅっと握りしめる。
視線で促されて巽も恐る恐る指を伸ばした。
まあるく何かを包み込むようにしていた手が開いたと思ったら、思わぬ強さで巽の親指を握りしめた。
驚くほど細く小さな指が、驚くほどの強さで巽の指をぎゅっと握っている。
びっくりするのと同時にどうしてだか目が熱くなってきた。
はじめての感動、はじめての感情だった。
「お兄ちゃん。妹を守ってね」
母の言葉が細胞に染み入って、巽の使命となった。
公園前でスクールバスから降りると、イチョウの木の下のベンチから母が手を振っているのが見えた。
少し歩けるようになったばかりの妹は、その足元で落ち葉を拾って遊んでいた。
近所の同い年の子たちも一緒だ。母親仲間で話し込んでいるらしい。
巽は芝生の傾斜を下りてそちらに行った。
「おかえりなさい、先におうち帰ってる?」
「ここにいる」