30-2.ないものばかり
文字数 960文字
「中川巽といいます。君にお話があるのだけど、ちょっとそこまで一緒に来てもらえるかな?」
「ほいほいついて行くわけないだろう。怪しいヤツ」
「うん、そうだよね。ごめんなさい。君のお母さんには許可をもらったから、確認してきてもらっていいよ。お家にいらっしゃるから」
なにがいらっしゃるだ。
面倒になって達彦はついて行くことにした。何かしかけられたところで返り討ちにする自信はある。
連れていかれたのは本当にすぐそこだった。
いつも前を通る白い大きな家。表札には「城山」とある。
「こんにちは」
理知的で上品な初老の女性に出迎えられた。新しくできた青陵学院の理事長城山苗子。
話の内容は、四月の開校に備え新入生を募っている。特待生として達彦に試験を受けてもらいたい。そして示されたのは破格の待遇で、
「お母様には良いお返事をいただいてるわ。あとはあなた自身がどうするかよ」
優しく優しく微笑む城山理事長だったが、達彦は気がついていた。
寛大で慈悲に満ちたその眼差しの奥に、有無を言わせず人を従わせようとする欲を感じる。人を動かすことに慣れた支配者階級のそれだ。
自分が喜んで飛びつくとでも思っているのか。達彦は鼻を鳴らしてやりたい気持ちを抑えるのに苦労した。
引き受けるのが当然だ、だが自分の劣等感に満ちたプライドがそれをなかなか受け入れられない。
「君は本当に優秀だから他所の学校に取られたくはないんだよ。承知しておくれよ」
中川巽がにこりと笑う。
「巽さんには生徒会長をやってもらうの、あなたに補佐をお願いしたいわ」
なぜかその言葉で腹が決まった。
こうして達彦は青陵学院高等部に入学することになった。
知れば知るほど中川巽は謎な人物だった。底が浅いのか深いのか、それさえ判断がつきかねる。
わかるのは彼が天才だということと回りの彼への期待の重さが尋常ではないということ。
達彦だったら苛立ってしまうだろう過剰な媚へつらいや賛辞、あるいは妬みや誹謗中傷さえもさらりと流して動じない肝の太さ。
浮世離れした言動で、決して人格者とは言えないのに人望があるのは天性のものだと思えた。
いずれも達彦にはないものばかりだ。