35-2.「そうだよね」
文字数 990文字
「まさか、なかったことにするつもり?」
力業にもほどがあるだろう。そしてそれは達彦が最も望まないことだ。
ふっと美登利の笑いの種類が変わる。
(読まれた)
それにまた彼女の口元がほころんだ。反応を見るためのジャブだったのだ。
あの一件が彼の中でどれほどの割合を占めているのか、彼女はどれくらいそれを利用できるのか、比重を読まれた。
先手を打つつもりが完全に後手に回った。
いや、これでいい。達彦は落ち着いて自分の目的を思い出す。
マインドゲームをするつもりはない。だが彼女の方が聞く耳を持たなければ意味がない。
「なかったことにされるのは困る。俺は元に戻りたいわけじゃないんだ。許してくれなくていい。俺はただ君に……」
「前提が間違ってるんですよ」
あまりに静かに美登利が言葉を挟んできたから、達彦は黙らないわけにはいかなかった。
「酷いこととかお詫びとか許す許さないとか、それは全部あなたの側の都合でしょう。そんな自己満足にどうして私が付き合わなければならないの?」
とても楽しい話をするように美登利は柔らかく微笑む。
「言ってたじゃないですか。気づいてほしいだけだ、おかしいんだよって。私がおかしなことを教えてくれた、そうでしたよね」
胸がつぶれる思いがした。
「おかげで気づけたんですよ、私。いいことですよね、これ」
この悪魔は達彦の罪悪感を徹底的に抉り出す気だ。
「そんなわけない。君はあんなに泣いてた」
「ねえ、どうしてあんなに泣いたんだろう。あなたの卓見に感動したからかな」
「屁理屈はやめてくれ」
「村上さんのも十分屁理屈だったよね」
笑みを消して美登利は達彦を見る。
「だから後ろめたいのでしょう。でもそんなの私の知ったことじゃない。ましてや私に傷をつけただなんて思ってほしくない。傷ついたならそれは私自身の問題」
言われたことが事実でなければ傷つくことなんてなかった。これは自分自身の問題。
「あなたにつけられた傷なんて何一つない。思い上がらないで」
情け容赦なく突き放されて、だけど達彦は喜びが沸いてくるのを感じていた。
そうだ、この子はこういう子だ。忘れていた。甘い誘い文句に簡単に靡く女とは違うのだ。
「そうだよね」
腹の底から笑いがこみあげてくる。
「ごめんね、最後に見たのがあんなボロボロの姿だったからさ、勘違いしてたよ。そうだよね」