ひょうすべの誓い 節七

文字数 645文字

 関白豊臣家は、もちろん、大坂の陣で亡んでいるが、北政所(正妻ねね)の兄の子孫が、大名家として存続している。「もとは平氏にして杉原を称す。家定がとき豊臣太閤より豊臣氏及び木下の称号を与えらる」
 歴史ライターの蒲池明弘氏は、この豊臣氏の系図が記載されている位置について、「ゲスの勘ぐりでしょうか」とことわられながら、ある疑義を呈されている。
 というのは、神別氏族の後、この分類にこまる三氏が記載され、その末尾が豊臣氏――
 
 そのつぎが、「諸蕃」氏族のトップバッター、

なのだ。
 
 「飯高、惟宗のごとき、出所さだかならず。豊臣氏のたぐい、何れの別といひがたきものは、しばらく神別の下におさむ」と、寛政重修諸家譜にはあるが、「諸蕃」、渡来人系氏族の系譜図の後に、さらに「未勘(イマダカンガヘズ)」という「その他」の項目がある。「もろもろの姓氏、(つまびらか)ならざるを未勘となづけ、諸氏のしもにをけり」秀吉こと木下藤吉郎が、素姓とも言えぬ貧農の出であることは、広くしられている。江戸時代でも当然のことで、しかも、徳川幕府の統治下、豊臣氏をもちあげる理由はなにもない。「未勘」にすればいいのだ。
なのに、豊臣氏は、「神別」と「諸蕃」の境目に記載されている。しかも「豊臣氏のたぐい、いずれの別といひがたきもの」とされつつ、秦氏と、どう考えても秦氏でしかない惟宗氏とのあいだに位置している……
 これは、惟宗姓神保氏の注釈とおなじ、編者のサジェスチョンなのではないだろうか? 
 豊臣氏は、渡来人系である、と……
 
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