まつろわぬ民 節四拾

文字数 1,374文字

 神功皇后が、八幡(やわた)(やわた)、あまたの軍旗をなびかせ、女神のごとく、朝鮮へ攻め上る。そこで三韓を服属させたかどうかは措くとして、ある程度出帥(すいし)が成功した。結果、ただでさえ(こま)やかだった日韓の交流が、さらに繁くなったと考えられる。近代のように、ことごとしく国民意識や国境を構えている時代ではない。しかも、皇室にも、そのロビーストにも、多くの渡来人がいる時代であり、派兵の結果「どうも、対馬海峡の向こうは景気がいいようだ」と考えた半島の人間が、大挙やって来る現象は、十分に考えられる。実際、神功皇后の息子の応神天皇は、
  この御代に海部(あまべ)、山部、山守部(やまもりべ)、伊勢部を定めたまひき。また劔池(つるぎのいけ)を作りき。
  また新羅人(まい)渡り来つ。ここをもちて武内宿禰(たけうちのすくねの)命(新羅人を)引き()て、堤池(築堤をともなう池造りか)に(えだ)ちて、百済池(くだらのいけ)を作りき。
 と、あるように、蝦夷や農耕民ならぬ漁民を平らげ、山海の部民を定めた。新羅から渡来人がやって来たので、武内宿禰に率いさせて百済池を造らせた。なんで新羅人が造った百済池だ、という話だが、百済も新羅も高句麗も、半島はみな「加羅(から)」でまとめていた、おおどかな時代としか言いようがない。
 池を造る、というのは、この時代の農耕には重大な事業で、池と言うよりは人工湖を造る。これを農業用水に利用する。つまり、貯水池だ。後に、弘法大師空海も、日本最大のため池である満濃池(まんのういけ)を造っている。その際の肩書きは、築池別当(つきいけべっとう、別当は長官)、こんな役職があることからも、池を築くことが中央にとって重要な事業だったことがよく分かる。
  また百済の国主(国王)照古王(しょうこおう)、牡馬壹疋(ひとつ)、牝馬壹疋(牡馬牝馬ひと組)を阿知吉師(あちきし)に付けて貢上(たてまつ)りき。
  また横刀(たち)また大鏡を貢上(たてまつ)りき。……
 と、百済の国王が、馬や物品、このほかにも論語などを献上した、という記載がある。これは、日本が百済からの要請に応じて新羅討伐の軍を出した返礼とも言われている。つまり、これが、三韓征伐の背景だったのだろう。この際阿知吉(あちき)王仁(わに)、といった人士も渡来している。
 あの有名な、新羅、高句麗、百済が相剋していた時代である。百済と日本の朝廷はよしみが深く、この要請で兵を出した、というのが実状のようだ。
  また手人(てひと、手工業者)韓鍛(からかぬち、朝鮮鍛冶)、名は卓素(たくそ)
  また呉服(くれはとり、機織の女)の西素(さいそ)貢上(たてまつ)りき。
 古朝鮮の名前が異風で面白い。こうして、かの地から、技術者たちがやって来た。
  また秦造(はたのみやつこ)の祖、漢直(あやのあたへ)の祖、また酒を()むことを知れる人、名は仁番(にほ)、またの名を須須許理等(すすこり)(まい)渡り来つ。
 この多士済々、続々とつづく人と物の流れ――その中に、

。彼らはこの時代に、渡来した。
 ゲーム・チェンジャーだったろう。この時期、本邦は地味や気候に恵まれ、恐らく人口も多かったろうが、文明では、中国に接する朝鮮の方が、ずっと進んでいた。その技術が導入され、各地が開拓され、人文が開ける……三韓征伐は、軍事的な成功以上に、半島情勢にくさびを打ち込み、日本の存在感を誇示した、という点で重要だろう。半島の臣民は日本を意識し、抗争に敗れ新天地を目指すものたちが対馬海峡を越えてやって来る――十字軍が、東方世界との窓口になった事例にも似る。
 軍事によって渡された架け橋で、日韓は強力に接続される。
 
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