まつろわぬ民 節百五拾二

文字数 1,065文字

 そして、ようよう康平七年(一〇六四)、源頼義(よりよし)が、河内国壺井に壺井八幡宮を建立し、これを源氏の氏神とさだめる……
 
 いつもおもうのだが、「八幡」という神号を聞いても、まったく神の尊像も、絵姿もおもいうかんでこない――読者の方で、八幡神の肖像をクッキリおもいえがける方がいるだろうか? 八幡神は、僧形八幡ともいわれる、僧侶のすがたをしている神なのだが、おなじ菩薩である地蔵菩薩にくらべると、まるでそのイメージが記憶されていない――(正直、この稿をかいているせいか、蚩尤をして八幡神の肖像とすべきではないかとかんがえている)
 皇祖神のアマテラスとは、この点、はっきりとちがっている――八幡は、八幡、という字面であり、あえてなにかを思い浮かべようとしても、近所の神社の建物がおもいだされるばかりだ……
 どうも、こうごうしさをかんじるには、ある程度の距離感が必要ということなのか……そのくらい、八幡という二字は、われわれの生活に密着しているというのか……
 この無機質で、無味乾燥なみみごこちは、なにか、役所に近似したものさえかんじる……
 司馬遼太郎氏は、「しまった」という意味の日本語は、かつては「南無八幡!」だった。ほかにも、「八幡堪忍ならぬ」「八幡掛けて(八幡に誓って)」「八幡たまらぬ」といったつかわれかたをしている、と、指摘されている。これは西洋一神教のGod!にもにた使い方で、God damn や God bless me! のGodはそのまま八幡におきかえることができるという――
それほどまでに、絶対的だった、というわけではあるまい――ただ、一神教におけるゴッドとおなじくらい、ほかにくらべるもののない、唯一無二のものであり、その距離感にまで接近されると、むしろおもみもなにもかんじさせず、信者の自家薬籠(やくろう)中にはいってしまう――常備薬のように、いつでもひつようにおうじて利用できる語彙になってしまう……固有名詞どころか、普通名詞化し、ついに、感嘆詞としてとびだしてしまう……
 神道、というのは、元来神々をまつるための道、祭道、とでもいうのか方法論であり、精神論で、ことごとくしく「だからこうしなさい」と教戒してくる「宗教」ではない――
 そのくらいいましめとして

、しかも、一神教のGodのごとく唯一無二の勢力圏として展開している……空気のように、広量無尽の勢力圏……
 それだけかるいからこそ、異端をいましめず、気心しれたふうに是認してくれる……このおすみつきのもとに、平将門は、「新皇」という異端の道へふみだした……
 
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