まつろわぬ民 節八拾
文字数 2,643文字
その王弟たる男――鬼籍に入ってなお、親王の名を現世へ持ち越している男……いまや、なげかわしや、百鬼と魔縁天狗の首領におさまった早良親王 は、鬼どもと火車が夜空を渡る行幸の――魔縁どもの長であれば、行幸の字を用いる不敬をおゆるしいただきたい――行旅にあって、雨のあがった気配をかんじている。
(む――)
五月 の空を占める降雨がのけられてみると、夜は――闇は、いかにもひろびろと、清 かに、のべられている……
開けている……
魔物の蒙 を啓 くほど、広闊ではないものの――
(あがった、か……)
燃え盛る鳳輦の中で、早良親王は、袍 に包まれた体をくつろげさせる――
先刻まで、この紅蓮に囲われた鳳輦を、百鬼がともなう鬼火を、慰撫するように落ちてきて、シュワシュワと音と煙を立てていた――その雨が、ない……
五月の夜は、清涼ささえみなぎらせはじめている。
(いや)
鬼の王は、キリ、リ、歯牙を噛みしめる……この澄明さ――それは、おのれの心に通じるものだ。
鬼らしくもない――烈しい光と熱と火にまつわられ、聖徳の京を後にした叡慮をお恨みもうしあげていた、鬼の肝が……
(天地 が通じておる――ひょうすべが、またぞろ、なんぞはかりごとかや……)
もう、無理だと知れているだろうに――人智では、動かせぬ。
長岡の混沌は、時代の条理……ごうごうと押し流されていくだけだ。
川の、淀のように……
(沈むのだ――黒き牛よ。おぬしらは、時代の供物よ)
おそらく、この自分と同じように……!
火宅のごとく、鳳輦の車中が燃え盛る……屋根の鳳凰が、火柱に包まれる……時代おくれの遺物で――異物なのだ。
だから、おのれは、あの秦の氏神……むくつけき牛頭 めに通じたのではないか? 習合し、ひとつとなり、蕃別めの内情が、おのれのたなごころにあるように流れ込んでくる……
闇――無明……
そこへ没するのがいやだからこそ、自分たち鬼は、こうして地獄の炎 をかきたてるのではないか……
だれもが無からやってくる――秦氏もそうだ。無の暗闇からやってきた。
だれが、またあそこへ、没していきたいものかよ……
(かみつくまでだ――凄絶に)
それが負け犬の遠吠えだとそしられようとも――鬼の牙が獲物 をもとめるのだ。
呪い――うらみ――
また無明へ……
それが、おのれらの――時代の表舞台から立ち去ることをもとめられた鬼の盛事ではないか……
(水、清らかに)
つらなりしむかしにつゆもかはらじと思ひしられし法 の庭かな
早良親王は、鳳輦の御簾から、無造作に、剛毛の生えた鬼の腕を突き出す。天へ向けたてのひらを、湿す雨粒はない――やはり、晴れ渡っている。
(魚 も棲みやせぬぞ――鬼よ)
あれくるえ。
水際を流血の惨にそめ……それが、鬼の花道、地獄の魁 ではないか――
きえろ、きえろ、短いろうそく
(動き回る影にすぎぬ――世を過ぎ、無明へ還るのだ)
なればこそ、絶え入る間際、灼 かに祟って呪って……それが、鬼の去り際ではないか。
(おまえたちは、鬼哭 くべきだ)
かつての柱石――天照大御神にならぶ皇祖神を奉じる一族よ。
ひさかたの 天の川原に ぬえ鳥の うら泣きましつ すべなきまでに
(影よ)
罔良 よ。――拡散する影のぐるりよ……消え入る前に、絶え入る果てに、その影響をなりひびかせて……
それで、なにかひとつでも、浮かぶ瀬があるのか――?
(怒号を上げろ――ひょうすべよ)
おまえたちは、裏切られたのだ……!
この長岡の鬼の王が、肯 おう――おまえたちの怒りは、正当だ!
如來自觀察 甚深微妙 (如来自らが深甚微妙に観じられる)
隨彼衆生根 普雨甘露法 (衆生の性根に随い、あまねく甘露と雨をもたらす法)
爲開諸法門 無量難思議 (もろもろの法門を開く、無量の不可思議)
悉歸入寂滅 平等眞實觀 (ことごとく寂滅する、平等に真実を観じる)……
皇族にして東大寺に修行した親王禅師が、鬼の口で華厳経を唱える……無尽法界 ――すべてのなかにすべてがある……だから、苦しみも恩讐も、宇宙の微塵――拘泥するほどの意味もない……
それが、華厳の教えだというのに……鬼の口は、極小へ木霊する宇宙へ、極大の怒号を発する毒を吐く……
その烈しさこそが、おのれのありたけだと、信じているかのように。
無明に没する短い蝋燭が、その灯が、ゆらいでいる……風のふく、くらやみのなかで……
悟りなど知らぬ――入道のきわなぞ、とうにはずれた魔道の道中……だから、悟るな――悟りすますな!
むさぼり、
いかり、
愚痴 てあれ!
三毒の淀とうずまく底へとしずめ――その澱 こそが、われらにほかならぬ!
悟ってすますには――今生はあまりにかそけく、無明の夜はながすぎる!
数珠をもみ、魔王が詠唱する……それは、回向 なぞではありえない。
こなたへつどえとよびかける――召集の回状だ!
魔王の読経が、百鬼の鬼どものなまざしを、三毒に昏 くかげらせる……地上の疫鬼が応じる、牛頭の馬頭の、臓物をはみ出させひきずったものどもが、あるいは、かすみのようにかすかな幽鬼どもが……
そらをゆく百鬼夜行に合流しようとする――
(来い――秦の鬼よ。もはや、朝の蕃 のと区別はすまい……この鬼の王は、おぬしらをむかえる準備がある)
無數無量劫 廣修習大悲 (無数無量の劫、広く大慈悲を修める)
逮成等正覺 度脱群生類 (正覚を達成し、畜生の群れから脱する)
普雨甘露法 隨器皆充滿 (あまねく甘露と雨をもたらす法、器はみな満つる)
如龍興慶雲 等雨於一切 (龍は慶雲のおこるがごとく、一切に等しく雨が降る)
復有淨智天王 (また浄智天王あり)……
雨師が応える――風伯が吼える……
だが、まだ。
(来い)
渡来人はやって来ない――
いや。
(む――)
早良親王は、遠見をするかのように、霊感をとぎすます――それだけではすまず、けっきょく、身を乗り出し、燃ゆる輿の帳 をかき分けて、百鬼の列の前途にむきあった。百鬼が、親王禅師の読経に呼応した魔が、万魔殿の列柱と群臣のごとく居並ぶ、その向こう……
東 ではない――
そう、方位をあらためてしまったのは、そこで――彼方 で勃興しつつある、なにかを感じ取ったためだった。
おおきい……
そして、はげしいのだ――烈々として……
旭日 のごとく……
(なんだ)
払暁 のように――
(む――)
開けている……
魔物の
(あがった、か……)
燃え盛る鳳輦の中で、早良親王は、
先刻まで、この紅蓮に囲われた鳳輦を、百鬼がともなう鬼火を、慰撫するように落ちてきて、シュワシュワと音と煙を立てていた――その雨が、ない……
五月の夜は、清涼ささえみなぎらせはじめている。
(いや)
鬼の王は、キリ、リ、歯牙を噛みしめる……この澄明さ――それは、おのれの心に通じるものだ。
鬼らしくもない――烈しい光と熱と火にまつわられ、聖徳の京を後にした叡慮をお恨みもうしあげていた、鬼の肝が……
(
もう、無理だと知れているだろうに――人智では、動かせぬ。
長岡の混沌は、時代の条理……ごうごうと押し流されていくだけだ。
川の、淀のように……
(沈むのだ――黒き牛よ。おぬしらは、時代の供物よ)
おそらく、この自分と同じように……!
火宅のごとく、鳳輦の車中が燃え盛る……屋根の鳳凰が、火柱に包まれる……時代おくれの遺物で――異物なのだ。
だから、おのれは、あの秦の氏神……むくつけき
闇――無明……
そこへ没するのがいやだからこそ、自分たち鬼は、こうして地獄の
だれもが無からやってくる――秦氏もそうだ。無の暗闇からやってきた。
だれが、またあそこへ、没していきたいものかよ……
(かみつくまでだ――凄絶に)
それが負け犬の遠吠えだとそしられようとも――鬼の牙が
呪い――うらみ――
また無明へ……
それが、おのれらの――時代の表舞台から立ち去ることをもとめられた鬼の盛事ではないか……
(水、清らかに)
つらなりしむかしにつゆもかはらじと思ひしられし
早良親王は、鳳輦の御簾から、無造作に、剛毛の生えた鬼の腕を突き出す。天へ向けたてのひらを、湿す雨粒はない――やはり、晴れ渡っている。
(
あれくるえ。
水際を流血の惨にそめ……それが、鬼の花道、地獄の
きえろ、きえろ、短いろうそく
(動き回る影にすぎぬ――世を過ぎ、無明へ還るのだ)
なればこそ、絶え入る間際、
(おまえたちは、
かつての柱石――天照大御神にならぶ皇祖神を奉じる一族よ。
ひさかたの 天の川原に ぬえ鳥の うら泣きましつ すべなきまでに
(影よ)
それで、なにかひとつでも、浮かぶ瀬があるのか――?
(怒号を上げろ――ひょうすべよ)
おまえたちは、裏切られたのだ……!
この長岡の鬼の王が、
如來自觀察 甚深微妙 (如来自らが深甚微妙に観じられる)
隨彼衆生根 普雨甘露法 (衆生の性根に随い、あまねく甘露と雨をもたらす法)
爲開諸法門 無量難思議 (もろもろの法門を開く、無量の不可思議)
悉歸入寂滅 平等眞實觀 (ことごとく寂滅する、平等に真実を観じる)……
皇族にして東大寺に修行した親王禅師が、鬼の口で華厳経を唱える……
それが、華厳の教えだというのに……鬼の口は、極小へ木霊する宇宙へ、極大の怒号を発する毒を吐く……
その烈しさこそが、おのれのありたけだと、信じているかのように。
無明に没する短い蝋燭が、その灯が、ゆらいでいる……風のふく、くらやみのなかで……
悟りなど知らぬ――入道のきわなぞ、とうにはずれた魔道の道中……だから、悟るな――悟りすますな!
むさぼり、
いかり、
三毒の淀とうずまく底へとしずめ――その
悟ってすますには――今生はあまりにかそけく、無明の夜はながすぎる!
数珠をもみ、魔王が詠唱する……それは、
こなたへつどえとよびかける――召集の回状だ!
魔王の読経が、百鬼の鬼どものなまざしを、三毒に
そらをゆく百鬼夜行に合流しようとする――
(来い――秦の鬼よ。もはや、朝の
無數無量劫 廣修習大悲 (無数無量の劫、広く大慈悲を修める)
逮成等正覺 度脱群生類 (正覚を達成し、畜生の群れから脱する)
普雨甘露法 隨器皆充滿 (あまねく甘露と雨をもたらす法、器はみな満つる)
如龍興慶雲 等雨於一切 (龍は慶雲のおこるがごとく、一切に等しく雨が降る)
復有淨智天王 (また浄智天王あり)……
雨師が応える――風伯が吼える……
だが、まだ。
(来い)
渡来人はやって来ない――
いや。
(む――)
早良親王は、遠見をするかのように、霊感をとぎすます――それだけではすまず、けっきょく、身を乗り出し、燃ゆる輿の
そう、方位をあらためてしまったのは、そこで――
おおきい……
そして、はげしいのだ――烈々として……
(なんだ)