軍囃子 節九

文字数 1,633文字

 建立中の兵主神神社には、夜間は縄を張られ、紙垂(しで)や榊が添えられる。こんな結界がなくとも、この境内に足を踏み入れるものはいないだろう。牛頭六臂(ごずろっぴ)の魔王が鎮座する。二対四眼のまなざしが、足下を睥睨する。如来の丈と仁王の厚みを備える巨躯が、悪所の疫気を払い、大将軍の携える斧鉞(ふえつ)のごとき凄愴を発している。そのたもとに広がる闇は、恐ろしい。ひしひしと、魔魅が満ちる。京中にあって、無人(ぶにん)の野でしかめぐり合えぬような、すくいのない暗闇。そこに、青みがかった、不定形の、揺らめき立つものがある。ねじれ、踊り、広がり、たなびき、絶える。煙。
 それを発するのは、香立てにたてられた、一束の線香だ。線香の先端が、(あか)く灼け、あるかなしかの夜風が、輝きを強め、また絶やす。香のかおりが広がるなか、合掌し、祭文を唱える老爺がいる。赤い道服をまとった、方士。徐福だ。
 「戦勝の報告か」と、方士の背後から、刷雄が声をかけた。世道とともにいる。「罔象女神を押しのけ、無事、御身を勧請いたしました、と」
 「()ね」徐福は、振り向きもしない。「こなたは浄域ぞ。結界の縄張りが見えなんだか」「人を呪い殺そうとしたやからが、内側に陣取っておる聖域とは」「われらが祠廟じゃ」「ふむ」ぼりぼり、刷雄が頭を掻く。「ほうじゃな。こなたは、たしかに、おぬしらの氏神神社よ」
 夜風が、香煙を、はたはた、たなびかせる。蚩尤――兵主神が、一同を見下ろしている。本当に、塵土俗間を見晴るかす神仏の雄大を感じてしまいそうだ。
 「えらい、豪勢な社殿になるそうな」刷雄が、徐福の背に言う。「瓦葺きは、(ちょう)の社ではないのう。色使いも、どことのう、烈しく、きらぎらしい」鼻から、息。「ぬしの面相と同じじゃよ。それらしく振る舞っているものの、根っこが別のところじゃ。いやいや、まだ、別の土を覚えておる、と、言おうか」「持って回った言い回しを」「おぬしこそ、これまで、さんざんに、正体をはぐらかしておったろう。自業自得よの」はぐらかし、ごまかしつづけていれば、いつか、曖昧模糊とした、朦朧とした、それは罔両のように。ぬえの如く、正体の分からぬものに。
 「余のものとて、そうよ」刷雄が言う。「どうにもひっかかっておった。この普請に参加しておる、工匠、荷役、商人(あきんど)らしき面々……はは、面々よ。全員ではない。が」道服の背を見つめる。「よう似ておるのよ。ぬしと同じ、微少なものながら、異相のものがいる」目尻や、鼻が垂れ、それだけなら、いかにも好人物に映る。そのまぶたを持ち上げ、いざ、目の色を光らせたときの、煮ても焼いても食えなさそうな、世巧者(よごうしゃ)な印象。それと通底する造作のものが、ちらほらと。「本邦ぶりでは、ないのう」「知った風な口を、なおも叩けるかな」「わしは、遣唐使に参加しておる」うっそり、徐福が、面長のおもてを巡らせる。肩越しに、その相貌は、いかにも剣呑な眼光を宿している。なぜだか、追い詰められているようにも映ったが。
 「大陸(あなた)で、おぬしのような面つきのものを、よう見た」「ふ」道服の肩が、震える。「ふふ、ふはは」大笑した。「成る程。われらが競合する相手として、好適よの。彼方(あなた)を知りつつ、おぬしは、こなたの陣営よ」「ぬしらは、そうではないのか」「そうではない、のが、悩みどころでな」くく、と、笑う。どこか、卑屈なような、やり切れないような。「われらは、まつろう民じゃ。天孫(すめらみこと)に服し、皇徳を慕う、率土の浜の、砂一粒に過ぎぬ」率土の浜、王臣にあらざるはなし。
 「金の流れを調べた」刷雄が、語気を強める。「こたびの建立にあたって、朝からの出費はほとんどない。

からの献金と、職人や資材の提供でまかなわれておる。それは、主上も、おぬしらの奏上を(よみ)されるはずじゃ」かすかな、ため息。「この長岡京と同じことじゃ。おぬしらの手弁当によっておる。これほど豪気なふるまいに及ぶものは、他におらんじゃろう。のう、渡来人氏族の雄」
 刷雄が、目を細めた。
 「(はた)氏よ」
 
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