まつろわぬ民 節十三

文字数 1,203文字


 「罔象女神?」雨に打たれながら、呆然と、目の前の、難破船のごとき――大破してなお、誰かを運ぼうとしている意志を持つ男に、刷雄は言った。
 軻遇突智(かぐつち)――炎の神を出産した際、女陰を灼かれたイザナミが、尿(いばり)を発した。そこから誕生したのが、罔象女神だ。その出自から、不浄を清浄へ転じる功徳があり、ご不浄の神とされている。悪所の下水問題を解決するために祀るには、まさに至当――だが、秦氏の横車により、妥協を強いられ、妥当に堕した。兵主神――秦氏の神を祀ることになった。
 だというのに……
 「狂瀾を、既倒に廻らせる……そのつもりかえ?」刷雄は言う。果たして、そんな仕儀に落ち着くものだろうか?
 すでに、二転三転どころではない――このめまぐるしい輪廻。今さら、正道に帰したところで、転変止まず、次なる六道を廻るのみなのでは……?
 修羅か畜生か、餓鬼か地獄か……
 「次善は、とても、そうとは言えぬ始末へ至った」憔悴した、徐福の声。だが、胴に響いているのか、どこか、ふいごのある楽器のように、力強い重低音だ。その双眸は、落ちくぼんだ眼窩の奥で、炯々と光を放つ。
 (フィーンド)
……ただ、正体のわからぬ、(おぬ)の種族にとって、珍しいことではないのかもしれない。
 隠から、日の当たる場所へ出ようとして、さらなる暗闇へ沈むはめになった……
 「ならば、次善やその次に甘んじるのではなく、最善の一手を打つべきであろう」
 「その」刷雄は、言いよどんだ。頬骨のあたりを掻く。「ええのか?」
 徐福が具体的になにを考えているのかはわからないが、罔象女神を勧請すれば、それは、兵主神に、さらなる習合を願い奉ることにはならないか? 今でさえ、相次ぐ習合の果て、落魄したありさまになり果てている……火に油――焼け石に水。弥縫(びほう)どころか、蛇足になりはしないか。
 蛇に足が生えた、さらに、わけのわからぬ生き物に……
「構わぬ」
 と、徐福は言った。
 「まさに、狂瀾を既倒に廻らせる、起死回生の一手よ。この一手が、さらなる波乱を呼び、渦と輪廻を招くことになろうとも――」真紅の道服をまとう男が、肩を落とす。徐福――この男も、秦の長老格なのだろう。
 ふと、哀しい気持ちに襲われた。徐福、というのは、はるかなる秦の時代に、海を渡った道士の名ではないか。
 不老長寿……永遠不滅の方策を求めて、この豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらちいほみずほのくに)へ。
 永遠を手にするどころか、正体のわからぬものになり果て、消え果てる未来に直面している。
 そうして、再度の航海を強いられている……
 「秦は、その未来を受け容れる。渦と嵐の陰に没するなにかとなろう」
 徐福は、深々と頭を下げる。
 「図書頭、どうか」その額から地面へ、雨粒が落ちる。「罔象女神を最初に勧請せんとしたのはおぬしらならば、おぬしらに手がけてもらうのが至極穏当。何卒」
 刷雄は言った。「諾」と……
 それ以上、そんな姿を見ているのは、忍びなかったのだ。
 
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