ぬえ鳥の夜 節六

文字数 1,509文字

 長岡の空を埋める雲とぬえ。そこから、するすると、稲妻のように、あるいは、川筋のように、大蛇(おろち)が降りてくる。畏れ多くも大内裏へ。空に、青白い霹靂が、雲もともなわずに飛んだのが、この時である。玉体に大それたことをしでかせば、須佐之男命(すさのをのみこと)日本武尊命(やまとたけるのみこと)が誅戮の剣を取ろう。だから、大蛇は、炎の蛇(セラフィム)となり、矢のように、中務省陰陽寮の結界に侵入せんとする。うねる火矢か、神変の火の粉か、官衙に飛来した蛇は、燃える体を起こして、陰陽寮へ。
 たちまち、宿直のものや、星見をしていた天文大属などが、集まってきた。(ぬさ)を取り、祝詞を唱えながら、ばさばさと、火の蛇をはたく。火の粉が舞い、焔が昇り、護摩のような騒ぎとなったが、まだ、呪詛は猛々しい。燃ゆる鎌首をもたげ、先の分かれた舌を漂わせる――舌が、めろめろと(みどり)の妖火になる。禁裏にまで騒動が伝わり、鳴弦の音が響く。弓を弾くことで、破邪の霊験を発揮するのだ。陰陽師たちは額に汗し、生きる焔に取り組む。鎮定に手こずれば、陰陽寮の威信が失墜する。
 と、高橋御坂その人が、馬に乗って、内裏へ駆けつけてきた。陰陽寮へ侵入せんとする呪詛を見ると、「水を持ってこい」と、命じる。「すでに、桶の四、五杯もぶちまけております」「柄杓一本でええ」運ばれてきた柄杓を手に取り、儀式のように北斗を踏む。「(つま)より(つま)へ。天乙貴人急急如律令(てんいつきじんきゅうきゅうにょりつりょう)。船足を速め、()う、火を消せ」北斗は北の空の(ひしゃく)、七星を踏んで聖別された道具で、陰陽道の女神を勧請し、航海の守護神である彼女の、特別な水を得る……
 呪とともに、柄杓の水を、蛇へ投じる。すると、妖しの火によって照らされる闇に、水が飛び――その水の上に、船が浮いていたように見えたのは、いかなる錯覚だろう。(た、宝船)と、宿直のものなどは思ったものだ。宝船の上には、弁天かどうか、美しく着飾った婦人のみがいる……船と水が、燃える蛇の上にかぶさると、それまで、どうやっても消せなかった火勢が、じゅ、と、音を立てる。
 ひ、
 い、いいいぃぃー。
 甲高い、ぬえの声。
 「丙要鎮(ひのえようじん)、火の要鎮(ようじん)」蛇は消え、白煙のみが呪詛の名残となる。
 オーン、カカカ、ビサンマエイ、ソワカ。
 「御免」と、声をかけて、しゃらしゃらという金輪鳴る錫杖の音とともに、陰陽寮に入ってきた比丘(びく)(僧)がいる。錫杖を携え、八十種好(はちじっしゅこう)のいわゆる「肩まで届く福耳」をそなえている。それどころか、額に渦巻く繊細なひとかたまりの毛は、白毫(びゃくごう)ではないか。さんさんと後光が射し、陰陽寮が白く染め上げられる。
 (おーん)、ハ、ハ、ハ、希有なるものよ、成就あれ。
 (じ、地蔵菩薩)
 「ご理解あろうが、火急の儀じゃ。図書頭に頼まれて、使いをすることとなった」
 「も、もったいのう」一同、平伏している。「いやなに、道祖のじいさまから話を通されたからのう」と、地蔵はくだけている。今や比丘形ながらまごうことなき菩薩の威光をまとった地蔵尊は言った。「地の恵みとその蔵としては、地鎮には興味津々じゃ。図書頭からじゃ。わしも廻ってきたが、神祇官にも、ぬえ鳥の呪詛が及んでおる」「なんという」「大胆不敵なやり口よの。刷雄が言うには、曖昧模糊として実体の定まらぬはしばしを祓っても、呪いの黒雲は晴れず。この上は、左道邪法の中心を訪ねて、(さね)を打たん、と」
 「心得ました。あの黒雲が集う下を目指すのですね」
 「さすが、理解が早い」ニコリ、地蔵が笑う。「六道を廻るわが案内(あない)も、迅速ぞ。さ」と、左手に載せていた宝珠を差し出した。
 宝珠から、的皪(てきれき)、光が伸びて、寮内を塗りつぶす。いや、中務省全体が、妙光に圧される。
 そして、光が消えたとき、地蔵はいない。従五位陰陽頭も、いなくなっている。
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