ひょうすべの誓い 節十六
文字数 3,023文字
大内氏が、西国の覇者となる――だが、大内氏の最盛期をもたらした覇王義隆 は、継嗣晴持 の戦死をきっかけに酒や文雅に沈湎(ちんめん、酒や物事にふける)し、軍事をなおざりにする。――大内氏というのは、どうも、劇的で、英雄的である。
その死もまた華やかで、昔の寵童である側近陶晴賢 に謀反を起こされ、自害する。一説では、養嗣子である晴持とも男色の関係だったという。
派手な連中だ。
この晴賢 を討ち、勢いを駆って大内の遺領をきりしたがえたのが、毛利元就 だ。ただ、そもそも、二人はおなじ大内家家臣で同僚、晴賢の謀反を元就は承認していた――共謀者なのだ。
どうも、この元就という男は、徳川家康に似ている。強者が立っているあいだは、如才なく微笑をむけておきながら、奸譎 な工作で総取りをねらう。しかし、腹黒く謀略をふるうのは、一代の一時期のみで、あとは「中国ものの律儀」という風評を確立させるほど、誠実な外交に終止した。秀吉の死後、関ヶ原の戦後、様変わりしたように好き勝手に振る舞い、豊臣家をおいつめていった家康に似ている。鳴くまで待とう時鳥 、だ。時鳥はテッペンカケタカと鳴く――問いかけるように。
元就は、ともに義隆を殺し、猶子(ゆうし、養子未満のあとつぎ)義長を立てた晴賢とも対立する――大坂の陣前夜の家康のごとき男ににらまれたのだ。
徹底的にやられる。
厳島の戦いで晴賢は自刃。その後、大内義長を討ち、大内氏の版図をわがものとする。
大内義長は、じつは、九州豊後の大名大友氏の出である。大友氏が波多野氏の血縁であることは幾度も触れた。
秦氏にゆかりある人士は、平安期の奥州藤原氏といい、蒲生レオン(氏郷)やら内藤ジョアン(如安)やら、エキゾチックな人物がおおい――大友氏の場合は、有名な大友宗麟だろう。禅宗に帰依していながら、後にキリスト教に宗旨替えした。円頂(えんちょう、僧の頭)のキリシタンである。
義長の実兄だ。
晴賢は、義長を立てることで、宗麟を味方につけた。
毛利氏は、もとは相模国毛利荘 の出だ。おなじ相模国天穂日 命を初代とする。これは出雲国造 の祖神でもあり、渡来人と密接にかかわっていた人物だ。その後、安芸に入るが、中国地方全体が渡来人の密度がたかいうえ、大内氏の版図を相続し、多々良氏由縁のものをおおく引き入れている。この天穂日命を初代とする慣習は、そのとき以来のものではないだろうか。
出雲国造――中国地方では押し出しのきく家祖だ。
二〇二〇年に日本人のゲノム(遺伝子情報)を解析したところ、おもしろいことがわかった。ゲノムの、縄文人由来の要素と渡来人由来の要素を比較したところ、その濃淡に地域差が出た。それによれば、渡来人由来の要素がもっとも濃いのは、近畿や四国であり、中国地方はそれほどではなく、九州地方は、むしろ縄文由来の要素の方が優勢を占めている――
まるで、これまでの神話や歴史から考えられていた渡来人の分布とはちがう……圧巻なのは薩摩や大隅のあたりで、惟宗島津氏の拠点だったこの地域は、縄文カラーで塗りつぶされている……
逆に、四国は渡来人由来のカラー一色で、なぜ、長宗我部氏が声高らかに「秦氏」を素姓としてとなえたのか、理解できる気がする。
中国地方の渡来人カラーは、関東などよりは濃いものの、むしろ、四国や近畿の辺縁として渡来人カラーに染まっただけなのでは、という濃度だ。
近畿は中央に入った渡来人の影響であり、理解できるにしても、四国の圧倒的な渡来人色は、いろいろなことを考えさせられる――弘法大師空海の卓絶した語学力の謎が解き明かせる様な気もするが、措く。
渡来人が、日本人に深刻な影響を与えた遺伝子は、DNAではなく、情報面 であろう。古朝鮮由来の文化や習俗、製鉄技術、稲作、当地に根づいてからの八幡信仰などが、日本人の異彩に、そして、メインストリームになった。
四国や畿内を経て、製鉄目的で中国地方へやってきた渡来人が、すでに当地の山林や砂鉄に目をつけていた在来渡来人と合流し、無数の多々良氏(たたら製鉄業者)となり、王朝を建てた――それが出雲王朝……大国主の大国かもしれない。そこには秦氏の一派も参加していたのだろう――秦氏にも、さまざまな一派がある。
毛利家初代天穂日命は、高天原から葦原中津国(あしはらのなかつくに、地上世界)を平定するために派遣され、手もなく大国主に懐柔され、婿入りしてしまう――出雲王朝の継承者となる。
毛利家は、この家祖を強調することで、多々良氏を服属させたのだろう――
実弟を殺された大友宗麟からすれば、毛利氏のそういう魂胆は見えすいている。
こいつは、あづまからきた侵略者だ……そうおもったことであろう。
われわれをのみこもうとしている――と。
大内氏――多々良氏も、そも、秦氏と関係の深い渡来人だ。
出雲王朝には、秦氏をはじめとして、さまざまな渡来人の多々良氏(たたら製造業者)が参加していた。そこに欽明天皇の時代にやってきた渡来人が参加し、後に「多々良氏」を屋号にして独立……そんな流れではないだろうか。
大内と大友……蕃別の身内同士で相争っていた渡来人は、毛利元就という明瞭に毛色の違う敵にであったのだ。
結集しなくてはならない――「秦」という旗印のもと……
それが、古代以来の本能――
大友宗麟は、臼杵氏や戸次氏といった大神氏由来の氏族団とともに、毛利元就と決戦する。この戸次氏には、有名な戦国武将立花道雪も含まれている。その際、宗麟は宇佐八幡宮に寄進し、毛利は八幡大菩薩の神敵だと非難した――こういう、宗教的な次元にまで引き上げて、相手を攻撃するのはめずらしい。
八幡大菩薩――つまり、八秦 の敵なのだと。
この氏子たちは、認識したのだ……
元就は、たしかに、不気味である――陶晴賢と共謀して主を討った時期と、それ以外のときのふるまいに温度差がありすぎる。諸事控えめで、律儀者、思いやり深い主君……そういう、ひとのうえにたつ長者の相貌をした、まったくべつのなにものかが息づいている。
やはり、徳川家康だ。
ながき世を 化けおほせたる ふるだぬき 尾の先な見せそ 山の端の月
とは、江戸時代の文人谷文晁の辞世だが、ほんとうに、生涯、化けの皮をかぶって人の世をわたっていく、妖怪のような人間はいるものなのだ。ただ、家康も元就も、生涯一度だけ、本性をあらわすことをおのれにゆるしていたかのように、謀略家としてドスのきいた顔をする時期をもった。
理系の秦氏にとって、理解できない陰影をもっている……
「天下を競望せず」とは、元就がそれ以上の勢力拡大を望まぬ旨をのべた言葉だが、どうだか――中国地方ではなく、東海道の交通のいいところに割拠していれば、最後まで化けの皮をかぶり、家康同様、保身と野心を両立させていたのではないだろうか。「三本の矢」の逸話にもみられるとおり、吉川、小早川両家を補佐とし、英雄児の飛躍よりお家存続のシステムを固めたあたり、やはり家康にかさなる。両者、幼少時に家臣の手ひどい裏切りに遭っているところまで一致している。
以来、毛利氏と大友氏は、北九州をめぐって熾烈な抗争をくり広げることとなる。
その死もまた華やかで、昔の寵童である側近
派手な連中だ。
この
どうも、この元就という男は、徳川家康に似ている。強者が立っているあいだは、如才なく微笑をむけておきながら、
元就は、ともに義隆を殺し、猶子(ゆうし、養子未満のあとつぎ)義長を立てた晴賢とも対立する――大坂の陣前夜の家康のごとき男ににらまれたのだ。
徹底的にやられる。
厳島の戦いで晴賢は自刃。その後、大内義長を討ち、大内氏の版図をわがものとする。
大内義長は、じつは、九州豊後の大名大友氏の出である。大友氏が波多野氏の血縁であることは幾度も触れた。
秦氏にゆかりある人士は、平安期の奥州藤原氏といい、蒲生レオン(氏郷)やら内藤ジョアン(如安)やら、エキゾチックな人物がおおい――大友氏の場合は、有名な大友宗麟だろう。禅宗に帰依していながら、後にキリスト教に宗旨替えした。円頂(えんちょう、僧の頭)のキリシタンである。
義長の実兄だ。
晴賢は、義長を立てることで、宗麟を味方につけた。
毛利氏は、もとは相模国
波多野
荘にちかく、その点、大友――波多野氏の本貫とご近所さんと言ってもいい。ずいぶん入念に渡来人に対し配慮しているふしがある。毛利氏の祖は大江氏だが、特別に慣習で、出雲国造――中国地方では押し出しのきく家祖だ。
二〇二〇年に日本人のゲノム(遺伝子情報)を解析したところ、おもしろいことがわかった。ゲノムの、縄文人由来の要素と渡来人由来の要素を比較したところ、その濃淡に地域差が出た。それによれば、渡来人由来の要素がもっとも濃いのは、近畿や四国であり、中国地方はそれほどではなく、九州地方は、むしろ縄文由来の要素の方が優勢を占めている――
まるで、これまでの神話や歴史から考えられていた渡来人の分布とはちがう……圧巻なのは薩摩や大隅のあたりで、惟宗島津氏の拠点だったこの地域は、縄文カラーで塗りつぶされている……
逆に、四国は渡来人由来のカラー一色で、なぜ、長宗我部氏が声高らかに「秦氏」を素姓としてとなえたのか、理解できる気がする。
中国地方の渡来人カラーは、関東などよりは濃いものの、むしろ、四国や近畿の辺縁として渡来人カラーに染まっただけなのでは、という濃度だ。
近畿は中央に入った渡来人の影響であり、理解できるにしても、四国の圧倒的な渡来人色は、いろいろなことを考えさせられる――弘法大師空海の卓絶した語学力の謎が解き明かせる様な気もするが、措く。
渡来人が、日本人に深刻な影響を与えた遺伝子は、DNAではなく、
四国や畿内を経て、製鉄目的で中国地方へやってきた渡来人が、すでに当地の山林や砂鉄に目をつけていた在来渡来人と合流し、無数の多々良氏(たたら製鉄業者)となり、王朝を建てた――それが出雲王朝……大国主の大国かもしれない。そこには秦氏の一派も参加していたのだろう――秦氏にも、さまざまな一派がある。
毛利家初代天穂日命は、高天原から葦原中津国(あしはらのなかつくに、地上世界)を平定するために派遣され、手もなく大国主に懐柔され、婿入りしてしまう――出雲王朝の継承者となる。
毛利家は、この家祖を強調することで、多々良氏を服属させたのだろう――
実弟を殺された大友宗麟からすれば、毛利氏のそういう魂胆は見えすいている。
こいつは、あづまからきた侵略者だ……そうおもったことであろう。
われわれをのみこもうとしている――と。
大内氏――多々良氏も、そも、秦氏と関係の深い渡来人だ。
出雲王朝には、秦氏をはじめとして、さまざまな渡来人の多々良氏(たたら製造業者)が参加していた。そこに欽明天皇の時代にやってきた渡来人が参加し、後に「多々良氏」を屋号にして独立……そんな流れではないだろうか。
大内と大友……蕃別の身内同士で相争っていた渡来人は、毛利元就という明瞭に毛色の違う敵にであったのだ。
結集しなくてはならない――「秦」という旗印のもと……
それが、古代以来の本能――
大友宗麟は、臼杵氏や戸次氏といった大神氏由来の氏族団とともに、毛利元就と決戦する。この戸次氏には、有名な戦国武将立花道雪も含まれている。その際、宗麟は宇佐八幡宮に寄進し、毛利は八幡大菩薩の神敵だと非難した――こういう、宗教的な次元にまで引き上げて、相手を攻撃するのはめずらしい。
八幡大菩薩――つまり、
この氏子たちは、認識したのだ……
元就は、たしかに、不気味である――陶晴賢と共謀して主を討った時期と、それ以外のときのふるまいに温度差がありすぎる。諸事控えめで、律儀者、思いやり深い主君……そういう、ひとのうえにたつ長者の相貌をした、まったくべつのなにものかが息づいている。
やはり、徳川家康だ。
ながき世を 化けおほせたる ふるだぬき 尾の先な見せそ 山の端の月
とは、江戸時代の文人谷文晁の辞世だが、ほんとうに、生涯、化けの皮をかぶって人の世をわたっていく、妖怪のような人間はいるものなのだ。ただ、家康も元就も、生涯一度だけ、本性をあらわすことをおのれにゆるしていたかのように、謀略家としてドスのきいた顔をする時期をもった。
理系の秦氏にとって、理解できない陰影をもっている……
「天下を競望せず」とは、元就がそれ以上の勢力拡大を望まぬ旨をのべた言葉だが、どうだか――中国地方ではなく、東海道の交通のいいところに割拠していれば、最後まで化けの皮をかぶり、家康同様、保身と野心を両立させていたのではないだろうか。「三本の矢」の逸話にもみられるとおり、吉川、小早川両家を補佐とし、英雄児の飛躍よりお家存続のシステムを固めたあたり、やはり家康にかさなる。両者、幼少時に家臣の手ひどい裏切りに遭っているところまで一致している。
以来、毛利氏と大友氏は、北九州をめぐって熾烈な抗争をくり広げることとなる。