魍魎の街 節十一

文字数 1,831文字

 船が行く。そこには、依然未完のままの町造りの材が、満載されている。
 なぜ、こうも輝かしい新京が、抜きがたい不安定さを抱えているのか。
 (人の世だ)刷雄は思う。
 完璧なものであればあるほど、瑕疵が目立つのか――あるいは、よりいっそう、(きず)が多くなることさえあるのだろう。
 初期の英邁さは、引き下ろされる。後には、俗人たちの思惑が乗り合わせた、当初の雄姿など面影もない迷宮ばかり。曖昧模糊、朦朧とした。
 魍魎のように、実体の定まらない――
 悪所の異臭は、さらにはなはだしいものとなっていた。
 (し)思わず、胃の腑の底が跳ね上がる不快感。(死臭ではないか)
 糞便。
 疫魔。
 死骸。
 それらが、至るところで、存在感を発揮している。そもそも、病気にも、実は、病臭、とも、称したくなるものがある。重病の患者のそばにいるときの、なんとも言えぬ、生体や神経の破壊されていく湿っぽい雰囲気。同じような病者や死者に触れるにつれ、慣れてしまうものの、確かに病魔が咀嚼する気配は存在している。
 それが、人世界の不潔や、それを超えた死穢(しえ)とも、一体となって。
 (うおおぉおお)
 この爽やかな季節に、路傍で転がっている死骸は、まだ糜爛の段階も迎えておらず、乾いた、コテンとした塊でしかない――そのはずが、川端の水気が、ぶすぶすと、その皮膚や脂肪を侵している、蝕んでいるかのよう。
 湿り気の中で、糜爛に、尾籠に。
 「いつぞやか、天竺の恒河(ごうが)の話をしてくださいましたな」世道が言った。
 「ぉおお。唐土で、天竺のものから直に聞いた」
 「あの話を思い出しましたよ」と、苦笑する。
 恒河。
 ガンジス川のことだ。恒河沙という言葉がある通り、その広大さは古くから漢音に翻訳されていた。
 この恒河というのは、無論、聖仙が終日(ひねもす)、その流れと向き合い、輪廻や無常を感得する特別な大河なのだが、仏教用語で言えば、沙羅双樹や祇園精舎にも等しい、この神聖河川が、
 汚い、
 と、言うのだ。
 そもそもが、泥だらけの濁流がたぷたぷと流れる河で、そこに、沿岸にひしめく家々が、ごみを投じる。糞尿も。
 人の死骸すら、この河へ流すという。結果、排水と下水と廃棄物(というには忍びないものもあるが)にあふれて、水面がぎらつき、人や物の輪郭が浮沈する、聖河ながら、地獄のような有り様になっているという。
 (恒河(ごうが)か)
 そう思えば、ふと、哀しみめいたものが過る。りんりん、四肢に満ちる気概がある。
 天竺からやって来た、その修行僧は言っていたものだ。
 かるがゆえ、恒河(ガンジス)は尊いのだと。
 人の世の淀み、汚濁、矛盾、飽和、欠乏……それらの一切を呑み込み、濁濁と押し流す。
 それだけ有り余り、他を侵蝕して止まなかったものが、あっという間に、過去のこととなって消え去り、そして、衆人の前に引き出されるのは、一見魯鈍にも見える、濁濁として、人の業を呑み込まんと構える新たな川面。
 くり返しだ。
 廻る。
 有情から、忘却へ。
 無常という。
 これは孔子だが、川上(せんじょう)の嘆、というものがある。ある川のほとりに立った子が、こう嘆ずる。「()く者は斯くの如きか、昼夜を()かず」川の流れのように、一刻もおかず、過ぎ去ってゆくものは昼夜の別なく押し流されていく。孔子ほどの聖人でなくとも抱きそうな平凡な感慨だが、孔子ほどの聖人であっても幼児のように平凡に立ち尽くさざるを得ない――こんなことを言っているその間も、こんなことを言っていること自体が、刻々と、押し流されていく。
 ありあまるものも、はびこる汚穢も、流れ去っていく。そうして、刷新される。
 無垢なるものへ。
 その激浪。
 (おぬしは、若いんじゃ)などと、愚痴っぽい気分で、世道を一瞥してしまう。
 新たな水面が開け、そこを無尽に染むことができる――()める喜びに、心浮き立っているのであろう。
 こっちはあいにく、その連続を目の当たりにしてきた。刷新されたものが、青写真を浮かべ、企図に染まり、地図が現実の区割りとなり、意図と意図とがせめぎ合い、理想が画餅に帰す。
 それも、休みなく。
 狂瀾が、既倒に廻り、さらなる狂瀾へ――その輪廻。
 そういうものだと観ずるのが、仏法だ。しかし、不思議にも、自分は、そういうものだと嘆じてはいないのだ。
 倦まず、脈々と。
 営々たる仕業を見守って。
 (染むことに、色めいてあれ)
 無垢が、王道楽土に染まろうが、金城湯池に固まろうが、人外魔境に陥ろうが。
 そのいずれにも、人は棲まう。
 
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