ひょうすべの誓い 節十四

文字数 1,587文字


 近世以前の日本の対外貿易は、どうも、江戸時代の長崎一極集中が印象的で、北九州、対馬海峡を介したルートしかなかったようにおもえてしまう。だが、鉄砲が渡来した種子島は大隅国であり、九州の南端、日本人がはじめてヨーロッパにおもむいた慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)は、仙台の伊達政宗が派遣したものだ――まあ、政宗だから、いまいち一般的な例にはできないのだが――日本のぐるりはことごとく海岸線で、このとき、大陸側にその長大な輪郭線をむけているのは、現在、裏日本などという不名誉な呼ばれ方をすることもある日本海側なのだ。北九州のみではなく、関門海峡、北陸や奥州でも日明貿易がさかんだった。明朝は海禁政策をとっていたが、中国の各地は交易品を必要としていて、おもてむきのルートが鎖されているため、かえってさまざまな航路が開発されていたのかもしれない。
 
 大内氏は、明との勘合貿易をさかんにしており、しかも畿内にまで勢力地をのばしたことで、三代将軍足利義満と対立、応永の乱で激突し、敗北した。防長二カ国にまでおいこまれるも、周辺国侍が大内氏につき、義満もそれ以上の追及ができなくなる。中国地方から出て、貿易戦争で将軍家と抗争している――勢いがよいとしかいいようがない。
 その後も北九州方面に伸長し、大友氏や少弐(しょうに)氏とあらそっている。
 
 ここで、いそいで注釈をいれたいのだが、大内氏の祖は、周防国大内に住していた多々良(たたら)氏で、その名のとおり、製鉄能力のある渡来人、中国地方で、製鉄業者の渡来人である――どうも、秦氏と似たにおいがする。実際に、周防には秦氏も進出していて、おそらく両者の交流もあったのだろう。多々良氏は、強固な地盤があったため、おもてむき秦氏には参加していないものの、かぎりなく黒に近いグレーのようにおもわれる。多々良氏の渡来は、応神朝の秦氏に一世紀以上おくれており、多々良はいろは仮名で「たたら」、ただのたたら製鉄業者という意味で、そういう地名もこのあたりにはたくさんある。在来の秦氏にむかえいれられ、その後独立した地方勢力ではないか。
 
 この秦氏の同心円状にいる大内氏が、北九州で、大友氏や少弐氏とたたかっている――大友氏は、相模波多野氏に発する源氏の秦氏。少弐氏は藤原千常(源氏)から出た秀郷流だが、太宰少弐(だざいしょうに)に由来する素姓で、ここまで北九州にどっぷりだと、えらく秦氏に浸かっているような気がする。
 西国、中国地方のあたりから、渡来人や秦氏のにおいがきゅうに濃くなる――製鉄や八幡宮や大神氏に関連するワードがふえるのだ。
 したがって、大内氏に対する、大友氏と少弐氏、これは、秦氏同士の抗争のような様相を呈している……
 大内氏は、両氏を追い、北九州での覇権を確立させる。秦氏系であったとしても、もう完全に、戦国武士の風貌をしている……戦闘者なのだ。秦氏は、百済から渡来したが、その技術力は新羅の匂いが濃い、くわえて、武士という階級は、高句麗の騎馬民族の文化が反映されていて、つまりは、古朝鮮(エンシェント・コリア)の三国が、濃厚なミームとしてたたえられている――
 朝鮮が、その後、唐を後援者とした新羅に統一され、高麗を経て李氏朝鮮、と、中華風の文明に染まっていったのは、あえて傍若無人ないいかたをさせてもらえば、なにか、残念な気がする。
 三国時代こそ、日本の朝鮮系ミームの源流……新羅統一時代に、後百済や後高句麗が興り、後三国時代に突入したことをかんがえれば、中華風のあり方と、三国時代のあり方が、半島内でも強烈なつばぜり合いをくりひろげていたのだ……
 もし、三国時代の異風のせめぎあい……高句麗の騎馬民族、新羅の技術力、百済の風雅が共存する、古朝鮮の風貌が保存されていれば――
 日韓、日朝の関係は、今日とはちがうものになっていただろう――われわれの先祖の一派は古朝鮮で、われわれはそれを含みながら、ここまでやってきた――
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