まつろわぬ民 節百一

文字数 1,537文字

 ――秦氏が、いつからか、全国へとまた散っていく……その足跡は、各地の豪族らにつづいている。
 たとえば、十一世紀に相模国で

野氏を開いた佐伯経範(さえきのつねのり)は、実は、幡多(はた)郷を経営していた秦氏が、藤原氏系列の武家に加わったものだという。後に本貫の名を称し波多野氏。
 日本の南端で戦国期から江戸期を通して猛将の気骨で鳴る島津家は、惟宗(これむね)、という聞き慣れぬ氏族を祖とする。これも秦氏の子孫なのだという。
 南国で土佐から中央へ覇望をかけた長宗我部(ちょうそかべ)氏は、秦氏の子孫を自称している。
 有名な明智光秀は、信長の命で名前を「惟任(これとう)」に変えている。島津家の祖惟宗に似たこの名前は、九州の名族で、その祖は大神(おおが)氏――大神、とはおおきくでたものだが、この一族は、なんと宇佐神宮の創始にかかわり、初代大宮司にもなっている。
 宇佐神宮は、八幡信仰の本宮だ……秦氏との縁は濃厚――と、いうより、応神天皇や神功皇后をまつり、兵主や秦氏の影を隠匿しつつ、八秦(やわた)を神号とするこの神をまつるにあたって、秦氏の人間が、大神、などという、とってつけたような名前に改名した、としかかんがえられない。信長は、将来の九州侵攻をみすえ、名将光秀に、惟任をなのらせて、諸大名をなびかせようとした。大神氏は、猛将立花道雪を出した戸次氏をはじめ、じつに三十九もの武家や社家を出している。
 
 前述の波多野氏の祖である藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、平将門の乱を鎮定した英雄で、別名を俵藤太(たわらのとうた)。この系譜は「秀郷流」とよばれる武家の筋目となるが、彼の妻は、源通の娘と


 源通の娘は令和天皇にまでつながる直系で、家格では秦氏の娘よりはるかにうえだ。
 にもかかわらず、秀郷の子千晴は、母不詳とされている――おそらく、秦氏の娘とのあいだにうまれたのだろう。この系譜から、蒲生(がもう)氏や内藤氏、さらには、あの有名な奥州藤原氏が出ている。
 奥州藤原氏は平安末期に亡ぶが、蒲生氏や内藤氏は、戦国期以降にもかがやきをはなつ。織田信長の娘婿で、キリシタン大名、ばつぐんの器量人として有名な蒲生氏郷がいる。内藤氏は各地に散るが、それぞれが、武田、毛利、細川、徳川というじつに有名な戦国大名に仕え、武田四天王の内藤昌豊(出身は工藤氏)、毛利輝元の叔父となった内藤隆春、キリシタン大名内藤如安(じょあん)、徳川十六神将にかぞえられる内藤正成などがいる。
 キリシタン大名、というのが、いかにも異邦人の秦氏らしく、おもしろい。
 
 源通の娘とのあいだには、千常という子がうまれている。ここからもおおくの名家が出ている。
 ただ、ここに、前述した相模の波多野氏がかかわってくる。波多野氏をひらいた佐伯経範は、千常の子孫とされているが、じつは血縁関係はなく、幡多(はた)郷の秦氏が、秀郷流に参加したものだという。つまり、波多野氏とは、秦氏が、源氏になりすました一族なのだ。
 この波多野氏を基軸にして、なんと、頼朝の父源義朝(みなもとのよしとも)の妻を、さらに頼朝の側室を送り出している……
 上古から名家に接近するすべにたけていた秦氏だが、地方に下ってからも、そのお家芸はいかんなく発揮されている……源姓にまで食い込み、ここから、九州の名家大友氏を出した。
 
 概して、関東は、千常(源氏系)の秀郷流がおおいが、幡々(はた)郷、幡羅(はら)郷、幡ヶ谷(渋谷区)、幡多屋郷(横浜市)といった「不穏」な地名もおおい――波多野氏のように、筋目にそっと参入した秦氏がいた可能性は否定できない。
 
 ようするに、全国に、秦氏は勢力を扶植している。
 単に秀郷流というだけなら、九州にはこの稿でも触れている鍋島氏、そして龍造寺氏がいる。九州が秦氏の根拠地であることをかんがえると、秀郷流という縁故をたどっておおくの秦氏があつまり、濃厚にその血がながれこんでいると考えてもいいだろう。
 
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