まつろわぬ民 節百四拾三
文字数 1,686文字
それでありながら、ぬかりなく、中央へも工作している。
後に長岡京が廃されることになると、新京の造営になのりをあげ、盛大に支援した――ほんとうに、この一族は、油断ならないくせに、こちらの歓心を買おうとすると、とほうもない量の進物をつみあげる……暗に、おのれらの富強を誇示するかのように――
われわれが最大野党であることをおわすれなく、と……
秦氏の神は、稲荷であろうと、畿内ではつたわっていた。これは、
それでいて、平安京には、しれっ、と、石清水八幡宮を建立している――
宇佐八幡宮と同様、秦氏の痕跡は、神号というあられもない看板のほかは、なにもなくなっている――が、どうせ、これもおおい協力したことだろう……
豊前宇佐で興った八幡信仰が、新京にまで達した、秦の記念碑ではないか……
そして、この石清水八幡宮を起点として、八幡信仰は、いよいよ、本邦聖界の主潮におしあげられることになる……
それ以前も、八幡神の威名はなりひびいていた……聖武天皇の大仏建造にあたっては、みずから鳳輦に乗って、平城京にのりこみ、おおいに応援した。その娘、孝謙天皇――というより、重祚(ちょうそ、ふたたび即位する)して称徳天皇の代には、有名な宇佐八幡神託事件が起こっている……
ただ、これらのできごとは、ようするに、八幡神=八秦「秦氏」が、政治的にどういううごきをとったのか、ということでしかない――大仏建造を応援したのは、ほかならぬ秦氏がそうしたということだろうし、宇佐八幡神託事件など、ろこつに、秦氏が弓削道鏡の異数の栄達にとまどった痕跡がみてとれる……称徳天皇の寵を得た弓削道鏡が、僧のまま太政大臣につき、権勢をほしいままにすると、宇佐八幡宮から「道教を皇位にすべし」という神託がもたらされた。称徳天皇が、ふたたび神託をさずかるために和気清麻呂を派遣すると、身のたけ三丈(約九メートル)の僧形の八幡大菩薩が出現、神託をくだすことを拒む。清麻呂がさらに請うと、「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣(あまつひつぎ、次の天皇)は、必ず皇緒(こうしょ、皇族)を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という神託を得た。
どうも、秦氏がみょうな野心を起こして、道教とともに中央を牛耳ろうとしたようだ。その後のうごきを寸劇にすれば、
「本気か?」と、秦氏の真意をうたぐった称徳天皇が、和気清麻呂を派遣する。おそらく、このころには、道鏡への寵愛がさめていたのだろう――あるいは、弓削氏の天皇即位、などというとほうもないことを言い出されて、きゅうに正気に返ったのではないだろうか。
和気清麻呂が八幡神と会見し、二度目の神託をだししぶられるあたり、政見をだすのをしぶっているのは秦氏だとしかおもえない――「おまえたちは、中央をうかがうような一族ではないだろう!」と、清麻呂が強談判したのだろう――無事、道鏡を排す旨、あらたな神託がくだる……秦氏も、方針を変えた、みょうな野望からさめたのだろう。「無道の人はよろしく早く掃除すべし」……その無道の人を立てろといいだしたのは八幡神なのだが、まあ、秦氏は道鏡を立てることをやめたのだ。動揺している秦氏を清麻呂が一喝してかんがえをあらためさせた、というところだ。
和気清麻呂は、脚を病んで立てなくなったおり、宇佐八幡宮から神託をさずかり、快癒したうえで、神封(しんぽう、宇佐八幡宮の領地)から、綿八万屯(一屯は一五〇グラム)をあたえられた、という伝説がある――なぜこうも厚遇するのか、というはなしだが、どうも「そのせつはごめいわくをおかけしました」という内意があるようにおもえてしかたがない。
ようするに、このころの八幡神は、イコールで秦氏であり、その動向が、「神託」や「神の降臨」というかたちで潤色されているだけだ。ちなみに、神託事件の際の大宮司は、