軍囃子 節七

文字数 1,350文字

 悪所に来ると、やはり、なんとも言えぬ異臭と瘴気が、むう、と、押し寄せる。だが、そこに詰めかけた人々のいきれと汗が、やり切れぬ排泄物の汚穢を上塗りし、まだしも、人間的な、世の中で許容できる程度のものに変えてくれている。
 かなりの人混みだった。
 槌音、かんなを掛ける音。シトシト、細雨の降る中、真新しい木材の肌理が映える。兵主神神社建立が、急速に進められている。この作業を見守る物見高い衆もいるにはいるが、やはり、悪所の穢れを厭うて、さほど見物客は多くはない。それより圧巻なのは、普請に従事する工人の数で、そこに運搬される資材も含め、遷都直後に、よく、これだけの富が投入できたと思わざるを得ない。黒光りする瓦も運び込まれている。檜皮葺きや、せいぜいこけら葺きが主流であることを考えると、大寺に等しい豪華さだ。人々は、霊感こそないものの、胡座(こざ)し、そそり立つ蚩尤の威容を、どこかで感じているのだろう。四つ眼の牛頭をいただく六臂巨躯のあたりを、ちらちら見ている。蚩尤が坐しているのは、兵主神神社が建立される、まさに、その敷地だ。
 「あれが、兵主神(ひょうずのかみ)、ということで、間違いないのでしょうな」
 「蚩尤、か」ひょうずのかみ。
 もとより、牛頭、という妖魔の象形は、それだけで地界と人外に直結するまがまがしい風貌だ。この姿形をした魔は、極悪なものばかり。地獄に通じている。蚩尤は、その中でも、草分けにして、極めつけの感がある。
(この悪神が、要石となっておる)災いを押さえる鎮護の石のように。いつ、殺生石に変わるか分かったものではないが。(鍾馗様にしても、いかめしすぎるであろう)二対の魔眼が、見るともなく、地上を照覧している。もし、まざまざ、一人を凝視すれば、恐ろしさ以上に、この神がたたえる烈しさで、全身が燃え上がるかもしれない。押し寄せる大津波であり、いや、巨壁のように水平線を覆い尽くす海嘯が訪れる直前、平板に凪いだ海だった。活火山の火口をのぞき込むと、溶岩というのは、すさまじい熱気をたたえつつも、その融けた(いわお)の水面は、案外静かに、速やかに廻っている。内々に沖する怒気と烈波が、この霊異はすさまじい。
 刷雄と世道は、建立の急がれる普請現場を離れた。悪所を見て回る。あの小鬼や、弊衣蓬髪の疫病神どもが、掃いたようにいなくなっている。異臭を放つ水路にわだかまる魔気も、魍魎の形象を結ぶことなく、罔両(かげ)のまま、雨降る都城の薄暗さに、わずかに所在を得ている。こうやって歩いていても、どうしても意識せざるを得ない、兵主神の威武が、あたりを払っている。
 「疫気の抑えには、有効よな」「水浄める霊験は、望めそうにありませんな」世道が、ため息を吐く。「その苛烈な闘気で、(えやみ)を押しのけている武の鎮守。水浄めんとすれば、大方、あまたの血潮を流して、汚水を押し流す仕儀となりましょう」「やれやれ。糞尿にまみれ、その上血まみれの地所か。戦場(いくさば)以外のなにものでもないのう」「そういう神でしょう。兵主神」「しかし、主上が、その軍神をして、悪所を鎮撫すると決されたのじゃ。否やはない」「真事(まこと)」二人は肯く。「われらの勧進は無駄に終わった。さりとて、悪所を浄化する使命は公務。なれば、このむくつけき牛頭殿の左右を補弼する気構えでおらねばなるまい」
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