魍魎の街 節九
文字数 2,327文字
乙訓寺は、上宮太子が開かれた古刹で、遷都に際して長岡の鎮護として、大いに増築されている。正門には、下げ角髪 にした、利発そうな少年が立っていた。古風な利剣を腰に帯び、ほのかに彩雲が立ちこめている。
(護法童子か善財童子か)世道は、うやうやしく合掌し、一礼する。
境内には清雅な空気が漂っている。金堂から、読経する声。
この頃の仏教は、多分に、宗教と言うより、科学であり、取り分け、空海や最澄が活躍する前は、その向きが強い。悟入に至る方法論なのだ。
刷雄が唐土で学んだ禅定も、その一つだ。世道は、ほのかに香のかおる道場で、独り座禅する。
止観。
心を単一の対象に止 め、観 を得る……
世道は、おのれの法門の純化を迎えぬ、無明の胸中を見る。仏陀はここから解脱されたというが、世道は、この闇の大地から、おのれが予感する光明を得なくてはならない。
しばらく、呼吸を整え、刷雄から伝授された秘訣を唱える。すると思わぬことに、おのれの内に広がる暗黒の地に、
ちゃぷぷ、ちょろろ。
と、水音が聞こえた。
(!)世道は、おのれの精神を水音のした方へ向け、そこで、大地を這う、闇の下碧くきらめく、流れを見る。
(川が)
ちゃぴ。ちゃぽぽん。川水が跳ねる。あぶくが白く滾 る。その、水の流れ、泡沫の群がりが、ほとりに取り付いた、子供ほどの大きさの輪郭をなぞる。赤く光る目。馬のように伸びた耳。
(人!? いや)
も、ぞ、もぞぞ。小児ほどの大きさの、妙に黒々とした豊かな髪 を持つそれが、小さくて固そうな歯が並んだ口中を見せる。
み、
い、
いいぃぃぃいぃいいいぃぃいい~。
と、哭 いた。
(も)水辺でのたうつ魔。(魍魎!?)
なぜ、この水妖が――啓示を求める自分に、この生き物が見えてきた、その理由は。
(む、むう)
魍魎の姿が薄れ、ぼやけたにじみになる。魍魎、罔両 はまた、影法師の周囲にできる、茫 っとした広がりなのだという。荘氏に曰く、
「日既に山の端にかかれば、夜座静に月を待ては影を伴ひ、燈を取ては罔両に是非をこらす」夕暮れ時、灯火に浮かび上がる、影の端のにじみ。
朦朧とした、実態の知れぬもの。
鬼。
影は、別のなにかがあってこそ差すものだ。
(うぬぬぬ)
陰となった、隠 となった魍魎の向こうから、燦々と、白昼の陽がさす――
陽光。それを縁取るぎらつき。
風。
卯月の薫風なれど、そこには、怖気立つような異臭が混じっている。
陋屋が妙に密集し、それでありながら、手つかずの野が、そのまま広がっている。水路を流れる水は量が少なく、各戸が出す廃棄物や排泄物を、川まで流すことができずにいる。垂れ流されるがまま、押し流されぬ生活廃水……
(こなたは)
悪所だ。
水面に人糞が浮き、ぷかぷか、押し流されることなく、水に融けていくばかりのそれに、蠅がたかっている。わんわんという、淫祠邪教の舞。刻々と気温を増す卯月の空気が、妖しの術を編み、疫病が沸く。
(えい、おのれの想念の中でさえ、まじまじと目にしたくはないものよ)
屎尿の融けた、油じみたきらめきを浮かべる水面。
ここでは、水をかき乱すものもなく、水音もないまま、汚水が、流れる、というより、雲のように漂っている。
(うぐぐ)
不浄。
垢。
穢れ……
だが、ここで、ゾクリ、と、世道の心底を慄慄 と、粟々 と。
来やるのだ。
闇の向こう、山のあなたから――それが兆したとき、人一倍これに敏感な雄鶏の喉から、作られる。
時が。
払暁。来迎。
暗闇の底で、底割れを起こし、日が興る。旭日。陰中の陰にあって、小陽が射し初める、栄耀の一瞬。
汚穢と泥濘の底辺から、生命が芽吹くように――それは、やってくる。
豊穣。
清浄。
澄み切った……
(お、おおおお)
世道の止観が、汚水の面が、見る見る晴れて、明鏡止水の水鏡を成すのを認める。
これまで、人世間の汚辱にけがされるがままだった水面が、磨かれた鏡のごとき。
死に水のように停滞しつつ、活 き返る。
(あああああ)
浄玻璃 の鏡……閻魔の庁にある。
人の来し方の罪悪を、残らず映し出すという――そうなのだ。
水垢離 という。みそぎという。
汚れの極に達したとき、自然、それを剥落させる、浄化のプロセスが進行する。
穢れたものは、
祓われるのだ。
(こ、これか)
そして、伊弉諾 が、筑紫日向橘 の小戸 、檍原 にて禊ぎした折り、生じたものは……
禊 ぎは、水削 ぎ。
黄泉の国の穢れを、伊弉諾は水にて刮 いだ。その結果、そこから、幾多の神々が結んだ。
八十の凶神 。それを修正する神。
海神、日の神、道の神。
左目を洗った際に天照大御神 が。
右目を洗った際に月読尊 が。
鼻を洗った際に素戔嗚尊 が。
神話世界でも類を見ない、輝かしい生誕の瞬間が、穢れと水と浄化 とカタルシスの渦中から、開けたのだ。
そして、ちゃぴちゃぴ、ちゃぷぷ、と、この清浄の水鏡を乱し、波紋を広げるものがいる。赤黒き肌に、長き耳、赤い目の魍魎が、豊かな髪 の絡まるみどりごのごとき肢体を、もがかせて。
無心に水と戯れ、沐 む。汚水ではない。この至純の清水におのれを清めさせる魍魎は、まるで、産湯に浸かった赤ん坊のように、
産声を上げる。
座禅を組んだ世道の眼界から、止観の世界が去り、道場の木床が戻ってくる。
(戛然 、頓悟 )
魍魎――罔両。
罔象 。
罔象 。
(これじゃ。王道楽土が叶うかは知らず、せめて水清き水郷を実現せん)
急ぎ立ち上がると、乙訓寺を辞し、図書寮へ向かう。
(護法童子か善財童子か)世道は、うやうやしく合掌し、一礼する。
境内には清雅な空気が漂っている。金堂から、読経する声。
この頃の仏教は、多分に、宗教と言うより、科学であり、取り分け、空海や最澄が活躍する前は、その向きが強い。悟入に至る方法論なのだ。
刷雄が唐土で学んだ禅定も、その一つだ。世道は、ほのかに香のかおる道場で、独り座禅する。
止観。
心を単一の対象に
世道は、おのれの法門の純化を迎えぬ、無明の胸中を見る。仏陀はここから解脱されたというが、世道は、この闇の大地から、おのれが予感する光明を得なくてはならない。
しばらく、呼吸を整え、刷雄から伝授された秘訣を唱える。すると思わぬことに、おのれの内に広がる暗黒の地に、
ちゃぷぷ、ちょろろ。
と、水音が聞こえた。
(!)世道は、おのれの精神を水音のした方へ向け、そこで、大地を這う、闇の下碧くきらめく、流れを見る。
(川が)
ちゃぴ。ちゃぽぽん。川水が跳ねる。あぶくが白く
(人!? いや)
も、ぞ、もぞぞ。小児ほどの大きさの、妙に黒々とした豊かな
み、
い、
いいぃぃぃいぃいいいぃぃいい~。
と、
(も)水辺でのたうつ魔。(魍魎!?)
なぜ、この水妖が――啓示を求める自分に、この生き物が見えてきた、その理由は。
(む、むう)
魍魎の姿が薄れ、ぼやけたにじみになる。魍魎、
「日既に山の端にかかれば、夜座静に月を待ては影を伴ひ、燈を取ては罔両に是非をこらす」夕暮れ時、灯火に浮かび上がる、影の端のにじみ。
朦朧とした、実態の知れぬもの。
鬼。
影は、別のなにかがあってこそ差すものだ。
(うぬぬぬ)
陰となった、
陽光。それを縁取るぎらつき。
風。
卯月の薫風なれど、そこには、怖気立つような異臭が混じっている。
陋屋が妙に密集し、それでありながら、手つかずの野が、そのまま広がっている。水路を流れる水は量が少なく、各戸が出す廃棄物や排泄物を、川まで流すことができずにいる。垂れ流されるがまま、押し流されぬ生活廃水……
(こなたは)
悪所だ。
水面に人糞が浮き、ぷかぷか、押し流されることなく、水に融けていくばかりのそれに、蠅がたかっている。わんわんという、淫祠邪教の舞。刻々と気温を増す卯月の空気が、妖しの術を編み、疫病が沸く。
(えい、おのれの想念の中でさえ、まじまじと目にしたくはないものよ)
屎尿の融けた、油じみたきらめきを浮かべる水面。
ここでは、水をかき乱すものもなく、水音もないまま、汚水が、流れる、というより、雲のように漂っている。
(うぐぐ)
不浄。
垢。
穢れ……
だが、ここで、ゾクリ、と、世道の心底を
なぞる
、戦慄がある。これと同じものは、兎角朝が早いこの時代の人ならば、よく味わうものだ。暗闇の中、来やるのだ。
闇の向こう、山のあなたから――それが兆したとき、人一倍これに敏感な雄鶏の喉から、作られる。
時が。
払暁。来迎。
暗闇の底で、底割れを起こし、日が興る。旭日。陰中の陰にあって、小陽が射し初める、栄耀の一瞬。
汚穢と泥濘の底辺から、生命が芽吹くように――それは、やってくる。
豊穣。
清浄。
澄み切った……
(お、おおおお)
世道の止観が、汚水の面が、見る見る晴れて、明鏡止水の水鏡を成すのを認める。
これまで、人世間の汚辱にけがされるがままだった水面が、磨かれた鏡のごとき。
死に水のように停滞しつつ、
(あああああ)
人の来し方の罪悪を、残らず映し出すという――そうなのだ。
汚れのことごとくがそこに顕現するのは、至純の限りが裏打ちするが故。
汚れの極に達したとき、自然、それを剥落させる、浄化のプロセスが進行する。
穢れたものは、
祓われるのだ。
(こ、これか)
そして、
黄泉の国の穢れを、伊弉諾は水にて
八十の
海神、日の神、道の神。
左目を洗った際に
右目を洗った際に
鼻を洗った際に
神話世界でも類を見ない、輝かしい生誕の瞬間が、穢れと水と
そして、ちゃぴちゃぴ、ちゃぷぷ、と、この清浄の水鏡を乱し、波紋を広げるものがいる。赤黒き肌に、長き耳、赤い目の魍魎が、豊かな
無心に水と戯れ、
産声を上げる。
座禅を組んだ世道の眼界から、止観の世界が去り、道場の木床が戻ってくる。
(
魍魎――罔両。
(これじゃ。王道楽土が叶うかは知らず、せめて水清き水郷を実現せん)
急ぎ立ち上がると、乙訓寺を辞し、図書寮へ向かう。