ぬえ鳥の夜 節七
文字数 1,733文字
水音。加えて、むう、と、卯月の夜気にこもる異臭。
「やれやれ。糞雑衣 をまとう身ながら、この汚濁の水場は、やり切れぬ」しゃらんらんらん、と、金輪の音。御坂が振り返ると、地蔵の背中が、遠ざかっていく。屈強ながら小柄な背から、後光が発して、それが消えたとき、もう、地蔵はいない。
「陰陽頭」と、刷雄の声がした。そちらを見れば、藤原刷雄、菅原世道、さらには、神祇伯の大中臣某もいる。刷雄は、合掌した。「ありがたや。地蔵のご厚意に甘え申した」「地蔵尊と、このようなご厚誼を取り結べる自在法力にも、ぜひ頼りたいもの」「拙が頼りなさすぎるので、幼児の如く、菩薩が手を引いてくださるのです」「仏恩、かたじけなく賜りましょうぞ」そう言ったのは、大中臣某 だ。「天佑が先んじてわれらを導いてくださっておる。人事を尽くすのみ」
「悪所、ですな」世道が、あたりを見回す。ところどころにかたまって建てられた弊屋、汚水を洗いつづける水路。
頭上には、あの、不穏な稲光や、雷鳴を発しつづける黒雲。霊感を凝らせば、そこに、縞のある虎の毛や、融解した猿 の貌 、長い牙を剥く蛇 などが浮かび上がり、またも、あの、正体不明の魔が進発しそうな気配がある
ヒ、
ヒィー。
(ぬえ鳥)刷雄は思う。そして、小泉川の向こうにある、雑木林を指さした。「あなたよの」
「鵺 の呪、ですか。また、京の夜にふさわしい呪詛ですな」御坂が言う。四人は、小泉川にかかっている橋を渡り、雑木林に近づく。「さてはて。星明かりもふさがれておれば、依代 を探すのも面倒じゃ」世道をつつく。「お頭 」「ぬしは、方相士もつとめたのじゃ。適任ぞ」「やれやれ。鬼遣らいの声で、とらつぐみを追えるか、どうか」ぶつぶつ言いながら、世道が前へと進み出る。
「喝 ーっ」と、世道の背が膨れて見え、聞くものの心胆を上下させる大喝が、解き放たれた。
ざわざわと、木々が揺れる。羽根音。ヒィー、ヒィー、と、もの寂しい鳴き声が飛び、次いで、その声の主が、忙しく飛び立った。
久方之 天漢原丹 奴延鳥之 裏歎座都 乏諸手丹
「お、物実 が」見れば、頭上に頑張っていたあの暗雲が、凝然とかたまっていたのを解いて、切れ間切れ間に、明月や、星々がのぞいている。ちょっと前までの雷雲雷声はなんだったのか。夢のよう。
世道の一喝が、呪詛の核 となっていたぬえ鳥を飛ばし、呪いを解いた。
御坂は、口早に、呪を唱えた。ヒィー、ヒィイー、矢のように空を飛んでいたぬえ鳥が、急に回頭し、別の方へ進んでいく。「返し矢です」「なれば、射手をたずねましょう」
四人が、ぬえ鳥を追う。この、人になじまぬ鳥が、どういうわけか、悪所の弊屋の一つへ、飛び込んでいった。
世道が、腰のものに手を伸ばす。刷雄が言った。「いかん。戦うな、競え、と、言ったであろう」「なれば」
御坂が、前に出る。「照魔の明鏡、浄玻璃鏡 、映せ、移 せ」呪を唱えると、ヒィー、ヒィイー、ぬえの声が、弊屋で鋭く響く。言の葉の呪、呪文、鏡が、悪業に満ちた敵の呪を、冷酷なまでに映し出す。戸口の簾がめくれ、そこから、狸 の尻やら、胴から伸びた野太い虎の足、さらには、「おお」尻から伸びる、蛇の長躯が、突き出したのだ。
と、その、宙空で鞭のようにのたうっていた蛇の頭が、ひうん、と、投げ縄のように飛んで、四人に、牙を剥く。「むう」世道が今度こそ刀にものをいわせ、白刃を閃かせる。はっし、刃渡りや鎬 にかみついて、蛇がしのぐ。
呪術合戦の様相を呈してきた。前門の虎が術者を襲い、後門の狼が四人を狙う。定めし、陋屋では、猿猴 の頭と虎の前脚が、敵を討たんとしているのだろう。高橋御坂が、声をたくましくして、呪文を唱える。陋屋からも、祭文を詠唱する声が聞こえてくる。ヒィーヒィーという、ぬえの声も。
(えらいもんじゃ)刷雄は、舌を巻く。御坂の法力は確か。だと言うのに、それと真っ向から張り合い、振り回される蛇の尻尾は、幾度も牙を閃かせ、毒焔を吐く。綱引き譲らぬ。
「うむむ」御坂も、しとどに汗を掻いている。世道も必死だ。蛇の攻撃を防ぎ、迫り来る焔(ほむらい)を利剣の鋼と切れ味で、切り裂く。
刷雄が、声を上げた。
「おい、わしは、図書頭藤原従五位刷雄 じゃ」
「やれやれ。
「陰陽頭」と、刷雄の声がした。そちらを見れば、藤原刷雄、菅原世道、さらには、神祇伯の大中臣某もいる。刷雄は、合掌した。「ありがたや。地蔵のご厚意に甘え申した」「地蔵尊と、このようなご厚誼を取り結べる自在法力にも、ぜひ頼りたいもの」「拙が頼りなさすぎるので、幼児の如く、菩薩が手を引いてくださるのです」「仏恩、かたじけなく賜りましょうぞ」そう言ったのは、
「悪所、ですな」世道が、あたりを見回す。ところどころにかたまって建てられた弊屋、汚水を洗いつづける水路。
頭上には、あの、不穏な稲光や、雷鳴を発しつづける黒雲。霊感を凝らせば、そこに、縞のある虎の毛や、融解した
ヒ、
ヒィー。
(ぬえ鳥)刷雄は思う。そして、小泉川の向こうにある、雑木林を指さした。「あなたよの」
「
「
ざわざわと、木々が揺れる。羽根音。ヒィー、ヒィー、と、もの寂しい鳴き声が飛び、次いで、その声の主が、忙しく飛び立った。
「お、
世道の一喝が、呪詛の
御坂は、口早に、呪を唱えた。ヒィー、ヒィイー、矢のように空を飛んでいたぬえ鳥が、急に回頭し、別の方へ進んでいく。「返し矢です」「なれば、射手をたずねましょう」
四人が、ぬえ鳥を追う。この、人になじまぬ鳥が、どういうわけか、悪所の弊屋の一つへ、飛び込んでいった。
世道が、腰のものに手を伸ばす。刷雄が言った。「いかん。戦うな、競え、と、言ったであろう」「なれば」
御坂が、前に出る。「照魔の明鏡、
と、その、宙空で鞭のようにのたうっていた蛇の頭が、ひうん、と、投げ縄のように飛んで、四人に、牙を剥く。「むう」世道が今度こそ刀にものをいわせ、白刃を閃かせる。はっし、刃渡りや
呪術合戦の様相を呈してきた。前門の虎が術者を襲い、後門の狼が四人を狙う。定めし、陋屋では、
(えらいもんじゃ)刷雄は、舌を巻く。御坂の法力は確か。だと言うのに、それと真っ向から張り合い、振り回される蛇の尻尾は、幾度も牙を閃かせ、毒焔を吐く。綱引き譲らぬ。
「うむむ」御坂も、しとどに汗を掻いている。世道も必死だ。蛇の攻撃を防ぎ、迫り来る焔(ほむらい)を利剣の鋼と切れ味で、切り裂く。
刷雄が、声を上げた。
「おい、わしは、図書頭