ひょうすべの誓い 節四拾一

文字数 1,680文字

 秀吉も、この豪傑が、腹中に天下への野望を蔵していることは、当然見抜いている。だからこそ、彼を懐柔し、最終的には上洛へこぎ着け、臣従を周囲へ認識させねばならなかった。
 だが、ここで、家康は、長年いくえにも被っていた化けの皮を、一枚、ハラリと脱ぐ――
 信雄につづいて秀吉と講和した当初、家康は、二男雄義丸(結城秀康)を人質として差し出した。さらなる人質をもとめられるもこれを拒否――臣従をこばむ姿勢を見せる。秀吉は、四国を平らげていたものの、島津という九州王を残して、家康に背を向けることはできない。
 ――(あづま)、と、ふたたび、中央の権力者に、このパワーワードがたちふさがるのだ……難攻不落の無理難題。家康と全面戦争におよべば、その背後に、関八州をすべる北条氏がいる――手つかずの長大なる奥州がある!
 西だ、と、九州平定を優先するのが、当然のことであった。後顧の憂いを断つために、信雄を動かし、臣従をもちかけるも、家康は傲然とこれをはねつける……
 (まずいな)雲行きがあやしくなってゆく……情勢を観望すれば、家康が、広大なるあづまを背後に、九州を制しつつある島津と、秀吉をはさんでいるかのようだ。秀吉の要求を拒み、人質を差し出さず、上洛もしない……その態度が、もう、秀吉の競合者として家康を際立たせる――天下人と伍して立つ巨大な陰影を家康に与える。
 ――秀吉の外交には、ある「型」がある……窮境であればあるほど、激発するように強く出る……一面、これは、彼の貧窮と放浪の時代につちかった、かなしい弱者の知恵だ。たとえば、秀吉は、藤吉郎だった時代、信長に、清洲城大手門の二階から、しょんべんをひっかけられる、という目に遭ったことがある……怒り狂った秀吉が二階に上がると、「おれだ」と、信長が悪びれない顔で言う。
 「いかに主人であろうと侍の面に小便をかけられては面目にかかわり申す!」と、猛然と、秀吉はかみついたのだ……強者が不当な仕打ちをするとき、これを甘んじて受けていては、ぜったいに浮上できない。
 秀吉は、弱者として、このことを知っていた――まずは、立つ瀬なのだ。どなりこんだ先が信長という絶対強者であっても、そうであればこそ、折れるわけにはいかない――
 かつて、中国大返しでもそうだった。一刻も早く和睦をしたいのなら、三カ国割譲も清水宗治切腹もうっちゃって、講和してしまえばよかったのだ。だが、実際は、秀吉は、水没した高松城で清水宗治へ酒肴を届け、彼が船の上で自害するのをみとどけてから、轟然と大軍を引き返している……内心、胆をあぶられているかのようだったろう……
 小牧・長久手の戦いでもそうだ。ぜったいに毛利軍に動かれるわけにはいかない――いかないからこそ、三カ国割譲を強くもとめた――したがわねばじきじきに成敗すると激語した。
 弱みを見せてはいけない――窮境にあってこそ、強者として立つのだ!
 「攻めるか」という秀吉のつぶやきは、大いなる虚ろへ、単なる意志決定の言がひびき落ちていくかのような、すごみのあるものだっただろう――
 われらは虚無から立ち上がった……
 またあの虚無のふちで、たたかうのだ……
 
 兵主部の本気……
 
 秀吉は、徳川征伐へと動き出した。この時期、秀吉という巨大な外圧を背景にして、信州で真田昌幸がそむき、家康の討伐軍を敗走させている……また、家康の側近だった石川数正が三河を出帆し秀吉についている……内外で、切り崩しが進んでいたのだ。実際、翌天正十五年一月に徳川征伐に入る旨、真田昌幸に書状を送っている。
 徳川を征伐する……
 実際にこれをおこなっていれば、東側の最大の懸念材料だった家康を討ち、しかる後に、古豪である北条氏の動きを見て、おそらくは九州平定を優先させる……歴史は、こういうふうに動いていたであろう。小牧・長久手の戦いでの長期動員がたたって、家康の領内は農村が疲弊している。
 家康は、亡びるしかない……もう、人の手に、これをとめる力はなかった。
 だから、天が止めた。
 
 天正十三年十一月二十九日――
 
 天正大地震の発生である。
 
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