軍囃子 節十二

文字数 1,429文字


 どうしても、秦氏、という、正体の分からぬ氏族を語るとなると、物語上だけではおっつけなくなる。これは兵主神にかけているが、暗がりから牛、という言葉がある。暗闇から、ぬっ、と、黒い牛が出てきたときのように、物事の区別がつかないことだ。
 秦氏は、暗闇から牛が出てきたように、日本史に登場した。彼らの出てきた闇は、依然闇のままだ。
 五世紀に渡来したという。採鉱、織物、土木、本草(薬草)などに高い技術力があり、たちまち古の日本に大きな存在感を示すようになった。どうも、製鉄を中心とした諸技術に通じた、技能者集団だったようである。数字や商売にも通じていて、大蔵省に仕えるものを多く出した。
 「秦」などと名乗っているということは、春秋戦国時代を経ている。王侯の権謀や、縦横家の術数をこころえている、世巧者(よごうしゃ)の集団だ。古墳時代にようやく入ったか、というあたりの(当時の)日本人など、手玉に取られたであろう。ただ、この一族は、技能方面に習熟者を出す一方、どういうわけか、大政治家に乏しく、中央政界に顔役を出さなかった。聖徳太子の相棒役、秦河勝(はたのかわかつ)、さかのぼって、秦大津父(はたのおおつち)、また、秦酒公(はたのさけのきみ)というおもしろい名前の人物が、逸話を残している。(もっとも、権力者に密着しない性格のお陰で、聖徳太子の一族が滅んだ後も、秦氏は大過なくつづいている)技術者という性格が強く、マツリゴト、などという人間操作術にはうとかったのかもしれない。
 どうも、連想が唐突で恐縮だが、はるか下って幕末時代、佐賀の賢公鍋島閑叟(なべしまかんそう)は、学問工業の振興に力を入れていた。佐賀藩は、蒸気船の修理能力を持つ東洋唯一の港を有し、自藩でアームストロング砲を製造する技術力を持っていた。それだけのアドバンテージがありながら、江戸では攘夷云々開国云々の政見を口にすることがない。それでいて、日本最大の工業力を涵養しているこの藩主を、ひとびとは「肥前の妖怪」と呼んでいた。技術、という、本来なによりも堅固なものに根ざしていて、それでいて、浮世時節の政局から距離を取っているものは、どうも、ばけものじみた、得体の知れないものとして見られるらしい。
 秦氏も、その手の、うすきみわるさを感じさせていたのかもしれない。さまざまな記録にその名が記されていながら、具体的に、どういう人物なのか、目鼻立ちまで浮かんでくるような権力者を、滅多に出さない。そのくせ、その勢力圏と技術力は大きい。畿内の開発に預かって功があり、山城国葛野郡(かどのごおり)太秦を基盤とし、長岡京、平安京、と、二度の遷都の立役者となった。奈良仏教に国庫を私され、疲弊状態にあった朝が、長岡京に遷都することができたのも、当地を勢力圏とする秦氏の協力あってこそだ。暗殺された長岡京造営使藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の母は、秦朝元娘(はたのあさもとのむすめ)であり、造営使長官は、秦忌寸足長(はたのいみきたりなが)、要するに、長岡京造営は、秦氏の支援によって成った。ただ、その秦足長からして、官位は、なんと正八位下、長岡京を造営して、やっとで功績が認められて従五位上。このあたりの機微が、秦氏を象徴している。技術畑の大家は、社内政治のトップにはなれない。まして、古代日本である。一方で、マツリゴトには疎くとも、その実力は確かで、古代には全国の産業を支え、下っては諸芸の技能者を出しつづけた。広隆寺を建てたのは秦河勝、他にも、秦氏は伏見稲荷、松尾大社を建立している。政界とは一線を画しながら、太秦を中心に、河内、丹波、阿波、出雲、美濃、と、全国に影響力を及ぼしていた。
 
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