ひょうすべの誓い 節七拾五

文字数 1,290文字

 作者としては、この後の島津本国の対応にも感動を覚えてしまう。島津義久、義弘、歳久、家久の四兄弟は、それぞれが卓抜した勇者であり、兄弟の結束も固く、島津家が九州を席巻した由縁であった。当主の義久をさしおいて、豊臣政権が義弘を当主あつかいしたのも、兄弟の結束を乱そうとしたためだという――が、この兄弟は、最後まで長兄義久を立て、彼とともにあった。
 すでに述べたように、義久は、家康に恭順する姿勢を見せている。義弘が帰国すると、島津はすかさず国境を閉ざし、徳川家に硬骨の態度を見せながら、和睦の道を探る……家康が当主の出頭をもとめるが、これを拒否。怒った家康は、島津討伐の軍勢をおこすも、右の事情で、開戦に踏み切れなかった。そのまま、島津家は微笑を振りまきながら、決して折れることなく、「西軍に投じたのは義弘の個人行動」で貫き、ついに、本領安堵までこぎつけた……義弘は、その後おとがめもなく天寿をまっとう――幕府から香典まで贈られている。他家ならば、義弘を差し出すか、腹を切らせているところだろう。最後まで、兄弟は団結し、家康や幕府をよせつけず、江戸幕府三世紀の間、独立した勢力圏の礎となった。
 互いを信頼し、気脈をピッタリと合わせている……信頼というのは、なかなか烈しい言葉で、信用のように確証に基づく判断ではなく、空白の未来と可能性を「こいつなら」と見込んで一任することだ……人柄を頼み込む、そのために自分が損失を出しても仕方がないという、賭博なのだ――
 この烈しさを互いに自明と呑んでいたあたり、なるほど、九州の覇者である――前述のとおり、島津は家康につく腹づもりであり、だとすれば、当主の弟が家康の命を狙った、しかもその奇功が思いがけぬほど奏功した……そんなことを認めるわけにはいかない。
 「さてどうする」と、主立ったもので、協議がひらかれただろう――その席には、惟新斎義弘も呼ばれていたにちがいあるまい。「おぬしの(わいん)武辺も高うついたな(ちたな)」と、義久が当てこする……
 ぼそりと、惟新斎が言った。
 「どこも逃ぐっ兵児(へご)でいっぱいやったで
 「家康本陣(あれ)しか
 「退()き口がなかったんじゃ」
 針で突いたように、失笑と哄笑が沸いた――これが、公式見解となった。
 冗談(チャリ)だ――まったく、冗談ではない。
 義弘は、退路を確保しただけなのだと――それが


 島津の家風からすれば、あまりにもありそうな話で、直接対決をためらう家康としては、この発表を容れるしかない――幕府もそれを(うべな)い、島津に好意を持つ諸侯もこれに準じた。
 惟新斎が、最初東軍に属そうとしていた、という説は、島津家の記録によるものだが、これは幕藩体制に入ってからの資料で、前述したとおり、義弘の態度と矛盾している。
 島津家は、平気でこういうことをする――無骨と武侠、血気に逸り、いかにも木強(ぼっきょう)……それでいて、朴訥にほどとおい譎詐(けっさ)をはたらく……薩摩という地方野党もいいところの土壌で、秦氏もよほど(したた)かになった、

の精華だ。島津の退き口伝説は、まぎれもない、島津家の武勇……それ以上に、外交のたまものなのだ。
 
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