ひょうすべの誓い 節三

文字数 3,149文字

 そして、武家支配に反発し、後醍醐天皇が謀議を重ね、さんざん辛酸をなめたすえに、蜂起する……
 周防が、中央ただ中から、親征をうけたのだ……ひとたまりもない……元弘(げんこう)の乱、といいう、なんとも元寇とまぎらわしい戦乱の中、後醍醐天皇は、楠木正成や足利尊氏の加勢を得て、鎌倉幕府を覆滅する。
 こうして、大政(くにのまつりごと)は、ふたたび、朝廷にもどった。改元され、建武に――
 
 建武の新政も、かつていわれていたほどひどいものではなく、鎌倉時代の政治の延長線上にあるものだという――むしろ、合理的な内容から室町幕府に継承された政策もある。それならなぜ三年ともたずくつがえされたのか、という話だが、どうも、土地の配分に問題があったらしい。そもそも鎌倉幕府自体が、土地訴訟を裁決する司法機関として全国の武士に推されて成立した。それが倒れた以上、倒幕の論功行賞は紛糾する――そのうえ、後醍醐天皇は、ここに公家というかつての大地主を復活させた。
 しっちゃかめっちゃかだろう。
 鎌倉時代の守護地頭と、律令時代の国司が並立していたのだ!
 ――こういう現実的政治的な矛盾を指摘することもできるが、なにか、それ以上に、後醍醐天皇は、公武合体という、明治維新でも成立しなかった壁につきあたってとんざした印象がある。
 新時代を宰領する立場にある人物としては当然のことかもしれないが、朝廷と武士という、どうしようもなく乖離してしまった二つの流れを合流させ、統一した上で、あらたな秩序を敷こうとした――ただ、それは、八幡の、周防の、八秦(やわた)の、のぞむところではなかったのだ――
 どちらかだ。
 アマテラスと
 八幡大菩薩。
 現代の公式見解では、八幡大菩薩は皇祖神とみとめられていない……並び立つことはゆるされない――
 どんなに楽園にほれこんでいても――アマテラスにいかれていても。
 
 ……われらは、まつろわぬ民(ドーントレス)
 われらはちがう!
 
 ……峻拒するのだ。
 みとめられることさえ、みとめなくなっているのだ。
 ――茶番ではない――
 ――なれあわない。
 われらか御身らか。
 
 いずれかなのだ……
 
 それが、矛盾としてむきあう矛と盾。
 相剋を前提とした予定調和。
 この均衡と緊張感のなかでのみ、日本という産霊(むすび)はなされる……海内(かいだい)と、海外……
 
 そういうものに
 われわれはなっている。
 
 だから、周防を抱きしめようとする中央を、つきはなした――激越な怒りさえもよおして、徹底して追った。
 ――さぶらふものは、あだやおろそかにはいたしませぬ!
 それはなんら、矛盾ではなかったのだ……愛している。
 なれあわない。
 
 後醍醐天皇は、失敗した。雑多な書類を甲乙関係なくひとまとめにして、トントンと端をととのえるような――そんな調整と統合を、八幡はゆるさない。
 
 そのうえ、天皇親政の上で失政となれば、やはり、皇徳もそこなわれる……そんな事態は、ぜったいに容れられない――
 さぶらふものは、あだやおろそかにはいたしませぬ!
 兵主蚩尤は、炎帝神農氏――人世界の皇帝の祖である黄帝と、最後まで覇を競った悪名高きもの(ノトーリアス)だ。
 すでに、鉄の時代――貴金属の時代の光輝が、卑金属に劣化するのを、八幡は、(うべな)わなかった……
  
 足利尊氏が光厳天皇を推戴し、南北朝の乱が起こる……没正義・没節義――没義道(もぎどう)の時代だったという……一所懸命を裏返しにしたように、所領をめぐって、親族同士が南北にわかれて血で血を洗う……
 社会心理、というものをかんがえれば、さもあらん。
 武士の時代となり、地下(ぢげ)が表立つこととなり、「さあ、これからだ」という張りが、鎌倉時代にはあったであろう――だからこそ、文系の懐柔ではなく理系の峻烈さを持つ北条執権政府に、ひとびとはよくついてきた。
 それがたおれたのだ――もう、張りはない。
 あとをひきついだ後醍醐天皇も、公武合体という画餅を追い求めた。
 おのれを律する張りも、おのれを率いてくれる手綱もないまま、馬頭の鬼どもは、荒れ狂う――
 節義? 道徳観念? ――そういうものは、人文系の科目だろう……?
 あるのは、もう、没義道の、我利我利(がりがり)亡者の餓鬼畜生道だ。作者は司馬遼太郎が大好きだが、その文章に、印象的なものがあった。南北朝時代は、それぞれが天皇を立てて、日本中が二つにわかれてあらそう、壮大といえば壮大なたたかいのただなかだ。小説の好題にもなりそうなものだが、実際に、この時代をあつかった作者には、早くに亡くなる方がおおいという――小説に仕立てるには、どうしても、精神的な美しさがなければならないが、この時代は、ただ欲があるばかりで、人間的な美観は、それこそ楠木正成くらいにしかみられない。それをおぎなうために余計にエネルギーをつかうのではないか、ということをのべておられた。
 さもありなんだ。
 理系の裏返しは、利己主義であろう――利己主義のあまりに、万乗の君にすら反旗をひるがえす無道にふみだす……
 自己のみがかわいいのだと――
 
 利己主義者はむせび泣くのだ。
 
 
 八幡は――蚩尤は、厳粛にこれを見送っていただろう。この卑しさこそがしもじもの本質であり、だからこそ、かれらは駆り立てられたようにはたらくこともできる。
 この陋猥(ろうわい)さに、中央が冒されるのをゆるすことはできない!
 
 ――君臣の別は、守られてあれ……
 
 峻厳に――
 
 
 南北朝の戦乱はじつに六十年のながきにわたって継続し、そのなかで、尊氏も、二代目将軍義詮(よしあきら)も没し、三代目将軍義満の代に、ようよう南北朝の統一を見る。……鎌倉幕府の成立後も朝廷が依然権力を握り、承久の乱で政権が鎌倉うつったように、やはり、歴史は印象的な出来事を節目に、それまでの体制がカチッときりかわるようなものではないらしい――六十年だ!
 この間、国内のありかたもかわっている。それまで血族郎等によって日本人は集団を形成してきたが、「(そう)」という村落を運営する自治会が成立したことで、地縁という結びつきができた。ここから、惣をまとめる有力者である国人(地侍)があらわれるようになり、次代をゆりうごかす原動力となる。
 
 南北朝の時代、秦氏のうごきは鈍い。九州で秀郷流千常(源氏)の系譜に挿入された波多野氏(秦氏)、大友氏が活動している――二代目将軍義詮の代に、製鉄系渡来人でおそらく秦氏の連合に参加していたであろう山口の大内氏が南朝から北朝へねがえり、その後も大内氏は山陰山陽から北九州にかけて、巨大な存在感を発揮することとなる。めだつものとしては、このくらいだろう。
 足利家は執権北条氏と代々縁戚関係にあった。大神(おおみわ)氏系の渡来人の血が濃く、いかにもそれらしく、日明貿易という世界経済にのっかって富を築いた。なにやら、平清盛同様日中貿易を盛大にし、清盛につづいて史上二人目に武家にして太政大臣になった人物であり、歴とした源氏ながら印象が重なる。
 
 室町時代は、なにか、八幡の、異風と異彩がはなやいでいる――理系とリアリズムの鎌倉時代、我利我利の南北朝戦乱を経て、ようよう、文雅の時代が花開いた……
 八幡(やわた)の王朝……それは、実際の秦氏や八幡宮の消息とはもはや無関係に。
 
 八幡神は、武家と民衆の守護者になった。
 
 いかにも大陸風のきらびやかさが、三代義満をいろどっているのに対し、八代将軍義政のころになると、まるで、唐様に国風の抑制が作用したように、わびさびの概念がにじみ出る「東山文化」が創出されている――この陰翳……やはり、理系の時代ではなかったのだ。
 
 
 室町時代は不安定で、義政のころには応仁の乱が勃発している……それに対処しながら、風流や酒宴に興じ、「天下泰平のごとくなり」などと皮肉られながら執務をしている。不思議に豪宕だ。
 戦国時代がやって来る――
 
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