魍魎の街 節八
文字数 1,424文字
「魍魎?」
刷雄 が言った。図書寮官衙、奥の間である。
彼に相対する世道が、真剣な顔で肯く。
「出たそうです。悪所で、夜になると、仏の肝を喰らいに川の鬼が現れる、と……」
「むうぅー」と、腕組みする。
悪化してしまった。
四角祭が、長岡京に結界を張った。それで、疫鬼の侵入をはばんだのはいいが、肝心の、内にはびこる病患が、さらに深刻なものになっている。
「良くありませんな」世道が、ゆっくり、首を左右に振る。
「たしか、おぬしも、方相士をつとめた折りに、悪所で、魍魎を見た、と……」
「拙の見たものは、まだまだ、瘴気とも妖気ともつかぬ、ものの気 に過ぎぬものでした。しかし、最近、夜毎出没するものは、淮南子にある通りの」
「小鬼か」
「ええ、水沢の精」
二人の間に、沈黙が生まれた。
人世界の汚穢が充満した水路に結んだ、水沢の魔……廃棄物と排泄物にまみれ、病死者の肝を喰らう食屍鬼。
山城国は、その名の通り、山も、野も、深く広い。その霊気が瀰漫し、都市部まで侵している。
というより、むしろ、これは、長岡京という異物が産み落としてしまった因果、都市という媒介が促した産霊 の結果なのではないか……下水から生まれた魍魎。
(功罪……なんと、長岡京という壮挙は、多くの混乱を呼び起こすことじゃ)遷都のご英断は至当至善。
ただ、そのご叡慮を汲む下々が、卑小に過ぎる。惑い、図り、騒ぐ。
「滅私奉公せねば」刷雄が言う。「玉体の叡はまぎれもない。しかし、こう凶事がつづけば、最終的には、極悪にも、皇徳の大小に言及する不届きものが現れるやも知れぬ」
「王臣、まして官人ならば、実務で問題を解決せよ、と」
「土工司 の尻を叩こう。もとは、連中の手抜き工事が原因よ」
「しかし、向後の疫 は防げるにしても、すでに発生している病魔は、われらが鎮めなければ」
「ほうよなあ。なんぞ、良案はないかや」
「結界を張ったところで、これはもとより、外患ではなく病患です。内なる病巣が大きくなるばかり」
「悪所に限定して結界を張ったところで、病魔が内側で猖獗を極めるのみじゃ。第一、王道にふさわしい処置ではない」
「ならば、王道にふさわしい楽土を敷きましょう」
「オ、秘策ありげな。さすがは菅原の偉丈夫にして、わが薫陶を受けた俊英」
「名伯楽が、おのれの駿馬を自画自賛しておられる」
「師を超えれば、おのが足にて天を駆ける麒麟児と認めてくれる」
「止めてください。三十過ぎた男に」と、顔をしかめる。「……いや、なにか、閃きそうな気がするのです。悪所を楽土に……ふむ。清浄の巷に、浄化する、というより、表裏を覆すかのような」
「表裏を」
どうも、なにか、一段飛躍する端緒についているらしい。
(良かろう)
藤原刷雄は、若き日に唐土に渡り、禅と陰陽の術を修めてきた。禅定は、禅入そのものであり、また、そこへ到る手段、瞑想法。
日頃、世道にも、おのれの禅定を伝授し、知識や法力をさらに研ぎすまさせている。
刷雄は、その場で、世道に、「止観」に関する秘道をいくつか授けた。止観というのは、瞑想法の中でも、特に、具体的に一つの事柄に思いを留める。そうすることで、対象により深い理解と合一を得ることができる。
「乙訓寺 に口を利いてくれる。道場で座禅を組み、おのれの内なる閃きと向き合ってくるがよい」
「王道楽土とは行かずとも、なにか、打開策までは導けますよう」
「構わぬ。千里の道も一歩から、よ」
彼に相対する世道が、真剣な顔で肯く。
「出たそうです。悪所で、夜になると、仏の肝を喰らいに川の鬼が現れる、と……」
「むうぅー」と、腕組みする。
悪化してしまった。
四角祭が、長岡京に結界を張った。それで、疫鬼の侵入をはばんだのはいいが、肝心の、内にはびこる病患が、さらに深刻なものになっている。
「良くありませんな」世道が、ゆっくり、首を左右に振る。
「たしか、おぬしも、方相士をつとめた折りに、悪所で、魍魎を見た、と……」
「拙の見たものは、まだまだ、瘴気とも妖気ともつかぬ、ものの
「小鬼か」
「ええ、水沢の精」
二人の間に、沈黙が生まれた。
人世界の汚穢が充満した水路に結んだ、水沢の魔……廃棄物と排泄物にまみれ、病死者の肝を喰らう食屍鬼。
山城国は、その名の通り、山も、野も、深く広い。その霊気が瀰漫し、都市部まで侵している。
というより、むしろ、これは、長岡京という異物が産み落としてしまった因果、都市という媒介が促した
(功罪……なんと、長岡京という壮挙は、多くの混乱を呼び起こすことじゃ)遷都のご英断は至当至善。
ただ、そのご叡慮を汲む下々が、卑小に過ぎる。惑い、図り、騒ぐ。
「滅私奉公せねば」刷雄が言う。「玉体の叡はまぎれもない。しかし、こう凶事がつづけば、最終的には、極悪にも、皇徳の大小に言及する不届きものが現れるやも知れぬ」
「王臣、まして官人ならば、実務で問題を解決せよ、と」
「
「しかし、向後の
「ほうよなあ。なんぞ、良案はないかや」
「結界を張ったところで、これはもとより、外患ではなく病患です。内なる病巣が大きくなるばかり」
「悪所に限定して結界を張ったところで、病魔が内側で猖獗を極めるのみじゃ。第一、王道にふさわしい処置ではない」
「ならば、王道にふさわしい楽土を敷きましょう」
「オ、秘策ありげな。さすがは菅原の偉丈夫にして、わが薫陶を受けた俊英」
「名伯楽が、おのれの駿馬を自画自賛しておられる」
「師を超えれば、おのが足にて天を駆ける麒麟児と認めてくれる」
「止めてください。三十過ぎた男に」と、顔をしかめる。「……いや、なにか、閃きそうな気がするのです。悪所を楽土に……ふむ。清浄の巷に、浄化する、というより、表裏を覆すかのような」
「表裏を」
どうも、なにか、一段飛躍する端緒についているらしい。
(良かろう)
藤原刷雄は、若き日に唐土に渡り、禅と陰陽の術を修めてきた。禅定は、禅入そのものであり、また、そこへ到る手段、瞑想法。
日頃、世道にも、おのれの禅定を伝授し、知識や法力をさらに研ぎすまさせている。
刷雄は、その場で、世道に、「止観」に関する秘道をいくつか授けた。止観というのは、瞑想法の中でも、特に、具体的に一つの事柄に思いを留める。そうすることで、対象により深い理解と合一を得ることができる。
「
「王道楽土とは行かずとも、なにか、打開策までは導けますよう」
「構わぬ。千里の道も一歩から、よ」