まつろわぬ民 節十

文字数 570文字


 素人意見で恐縮だが、技術誇りという現象は洋の東西を問わないようで、たとえば、日光東照宮の彫刻など、その技術は見事なものだが、いかにも装飾過剰で、華美荘重であり、楼門という楼門はおのれの(レイヤー)なす装飾物、唐獅子や龍、牡丹や猫で倒壊しそうにさえ思える。有名な眠り猫や三猿、琴高仙人など、ひとつひとつは味のある細工物なのだが、あたかも酉の市の熊手のようにゴテゴテと飾り立てて、有田焼のごとき彩色に埋もれさせてしまう。西洋のアール・ヌーボーという運動にも、似たような華美の気配を感じてしまう。鉄を、自由自在にねじ曲げ、植物のような有機的な曲線を描き出す。色づけしたガラスで幽玄な、あるいは華麗な絵を描き、やはりどこか植物を連想させるほっそりとした輪郭に造形する。前時代とは明らかに一線を画している風潮ではあるものの、そこには、芸術家の意識以上に、新技術の無邪気な表露があるように思えてしまう。「鉄を、飴細工のように自在に折り曲げられるようになった」「ガラスを好きなように彩色し、加工できるようになった」そういう、新時代を喜ぶ技術の声が、あちこちに顔を出しているように思えて仕方がない。日光東照宮のそれも、無論、江戸文化の職人工芸の極致であり、それを前面に押し出すあまり、技術を表現しようという欲求ばかりが表立ち、抑制を欠く芸術になってしまっている。
 
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