ひょうすべの誓い 節卅四

文字数 805文字

 京芸和睦は成った……毛利家は、最終的には、その所領のほとんどを安堵されている。
 その後、輝元は、紀州攻め、四国攻め、九州攻め、と、秀吉軍の先鋒となって活躍……九州では、長年北九州の覇権を賭けて相剋した大友氏の援軍となり、大友氏を牽制すべく同盟していた島津を討つという皮肉な立場になった。
 それでも、遂行した。
 
 天下人のにつくのは、ひょうすべの本能だ。
 天下人のひょうすべがあらわれたのだから。
 
 そして、これらの勢力も、残らず秀吉の軍門に降る……本能寺以後、決して秀吉の天下を認めようとしなかった長宗我部元親を、秀吉は許した。それどころか、上阪した元親を、ねんごろにもてなしてやり、「このような君に身を委ねることこそ武士の本懐」と感動させるほど、手なづけてしまっている――元親は土佐一国の主に転落したものの、文献によっては、「四国全土の王などより、このほうがよほど手頃であった。太閤様のお陰である」などと、くやしまぎれではあろうが、おのれへの仕打ちを感謝する発言まで載っている――元親の秀吉への傾倒は本物だったらしく、茶会で振る舞われたまんじゅうを「太閤殿下からのたまわりものじゃ、家臣にも分けてやらねば」と持ち帰ったり、「茶でも喫してゆけ」と太閤の書状が届くや土佐を発ち、三日で大阪へやって来た、など、エピソードがいくらでもある。
 ほほえましいのは、浦戸湾で九尋(約十六メートル)の鯨が獲れた際、これを丸ごと運送して、大阪まで献上しに行った逸話だ。「鯨丸ながらの音物(いんもつ、贈り物)は前代未聞」と、秀吉もあっけにとられた。平安時代における秦氏の本拠地、太秦(うずまさ)の地名は、雄略天皇への献上品として秦酒公(さけのきみ)が、絹を堆く(うずたかく、たかだかと積み重なっている)つみあげたのが、由来なのだという。土佐一国なれど、おのれのできる範囲で、豪気におごる……秦の心根が、よくあらわれている。
 元親もまた、秦氏だったのだ。
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