ひょうすべの誓い 節卅八
文字数 2,185文字
その後、秀吉は、九州で、イエズス会やポルトガル人の暴虐を知る。神社仏閣を破壊し、改宗を強いる……
日本人を奴隷として売買する――
(
攘夷、
の、精神が、激発した……蛮夷を攘 ちはらう……この楽園の土地に根づいたものを、外国人が破壊し、人民を連れ去る……おのれの身体の一部を毀(こぼつ、こわす)たれるかのような喪失と怒りを、この男も味わったのだ。
バテレン追放令――やがて、江戸幕府のキリシタン禁制にもつづいていく、禁教令の嚆矢である。
尊皇、という精神さえ、秀吉は発露させていたであろう――陛下に、もうしわけがない。夷狄に侵され、人民を掠められ……
周防の前線を宰領するものとして、このものどものは、ゆるしておけぬ!
――さぶらふものは、あだやおろそかにはいたしませぬ!
と、
この男は、ひょうすべの本懐に立ち返ることで、
秦氏は、仕事人で、誰か主をいただきつつ、地方の現実にむかいあう……信長を失った後、山崎の戦い、賤ヶ岳、小牧・長久手と、夢中で織田家中でのおのれの位置を確立させていった――それでも、ぬぐえぬ喪失感とともに、この男はあったであろう……
土地を耕す――邑 を富ます……
それを、アマテラスの末裔に献上するのだ……
それが古来の生理だというのに――いまや、彼の働きを嘉納してくれる主はいない……
だが、空白の十二月 が教えてくれた……
輝元という、稀代のひょうすべが、断じてくれた。
日没する処の天子として、
そうだ――
――さぶらふものは、あだやおろそかにはいたしませぬ! と……
祖先は、誓ったではないか!
――承久の乱以来、建武 中興や南北朝以外、武家は、皇室に、朝廷に、薄く奉ってきた。
神々は、われらを超越した、殿上にあらされればよい、と……今は、地下の時代で、天上の歴々は敬遠されるのだ、と。後土御門天皇など、崩御され後土御門院となられてから、葬儀の費用を捻出することができず、四十日もの間、ご遺体が放置されていた……
歴世の武家政権で、もっとも篤く朝廷や、
天皇 に貢献したのは、
織豊 政権であろう。
織田信長は、はじめ、足利義昭室町将軍の後援を得ることで、さまざまな大義名分をおのがものとした。だが、義昭はみずからが幕府の経営者として、信長より上位に君臨することを望んだ――結句、両者の関係は破綻し、追いやられた義昭は毛利輝元の庇護を得た。
その後、信長は、朝廷に接近した。
この織豊政権二代にわたって向き合われたのが、正親町 天皇だ。この方の幼少期も、朝廷は貧窮し、即位の礼の費用も出せなかった。これをお救いたてまつったのが、毛利元就と隆元の親子だ。即位料や御服費用を献納し、無事大嘗祭 をとりおこなうことができた。
大毛利の、さすがの貫目であろう――
正親町天皇の御代は、戦国の傑物たちが、天皇という存在の尊貴にきづき、せっきょくてきにこれを上にいただこうとした時代でもあった。本願寺法主の顕如も、莫大な献納をおこなっていて、以後、本願寺「門跡」の称号を得て、殿上人に準じることとなる。
信長も、その広大な版図を傾けて朝廷財政を立て直し、正親町天皇の庇護を授かった――和睦や征伐のみことのりをたまわり、叡慮の尖兵となって平定をすすめた。
信長の親朝廷政略は、父親信秀以来のものだが、これが、織田政権を継承した秀吉にも引きつがれた。
空白の十二月――ひょうすべ四氏族の紐帯を固め、秀吉は、いよいよ秦氏らしくなっていく。
豪気に、
おごるのだ。
――さぶらふものは、あだやおろそかにはいたしませぬ! と……
いまこそ、古の約定を履行するときだと。
秀吉は、天正十五年十月、北野天満宮で大規模な茶会をもよおし、ここで、あの有名な黄金の茶室を披露している。
黄金趣味というのは、幾度か日本史に現れるが、つど異彩をまさしく色彩上でもひとびとに印象づけながら、ついに、なかなか根づかずに終わる……北方交易でさまざまな物産を得ていた奥州藤原氏、日明貿易の大家足利義満、そして豊臣秀吉と、いずれも貿易で財を成したひとびとが、この趣味に走っている。
外国の――異端の趣味なのではないだろうか。そも、黄金を、金 と呼んで偏愛するのは、北方騎馬民族の風俗だという……中華文明は、最上の貴石を玉(翡翠)とした。日本は、そもそも、特定の貴石や貴金属に執着する文化を持たなかった。たしかに、あの、肉太で、ぽってり艶のある山吹色の光芒を正面から受け止めるだけの、体力、ともいうべきものは、なかなか日本人にはなさそうである。その後江戸幕府は大判小判としてこれを通貨にしたが、その金価格は世界基準の四分の一ほどだった。価値をそれだけしか見いださなかったのだ。
ややふざけたはなしになってしまうが、岡左内という戦国武将は、ともかく、金銭が好きで、それも、金銭そのものが好きでならず、小判を床にザラザラとまいた上で、真っ裸になって寝転び、小判の感触を味わっていたという。これで豪毅な男で、尊敬されるべき人物とされていた。ここでも、小判は、つまり珍物としてあつかわれていて、岡左内はいわば、異彩を放つ美術品として金貨を愛したのであろう。ちなみに、岡左内は、蒲生家の臣である。
日本人を奴隷として売買する――
(
ゆるせるか
)攘夷、
の、精神が、激発した……蛮夷を
バテレン追放令――やがて、江戸幕府のキリシタン禁制にもつづいていく、禁教令の嚆矢である。
尊皇、という精神さえ、秀吉は発露させていたであろう――陛下に、もうしわけがない。夷狄に侵され、人民を掠められ……
周防の前線を宰領するものとして、このものどものは、ゆるしておけぬ!
――さぶらふものは、あだやおろそかにはいたしませぬ!
と、
この男は、ひょうすべの本懐に立ち返ることで、
立つ瀬
を見出したのだ……秦氏は、仕事人で、誰か主をいただきつつ、地方の現実にむかいあう……信長を失った後、山崎の戦い、賤ヶ岳、小牧・長久手と、夢中で織田家中でのおのれの位置を確立させていった――それでも、ぬぐえぬ喪失感とともに、この男はあったであろう……
土地を耕す――
それを、アマテラスの末裔に献上するのだ……
それが古来の生理だというのに――いまや、彼の働きを嘉納してくれる主はいない……
だが、空白の
輝元という、稀代のひょうすべが、断じてくれた。
われらは、ひょうすべだ
!日没する処の天子として、
日出ずる処を守る
……そうだ――
――さぶらふものは、あだやおろそかにはいたしませぬ! と……
祖先は、誓ったではないか!
――承久の乱以来、
神々は、われらを超越した、殿上にあらされればよい、と……今は、地下の時代で、天上の歴々は敬遠されるのだ、と。後土御門天皇など、崩御され後土御門院となられてから、葬儀の費用を捻出することができず、四十日もの間、ご遺体が放置されていた……
歴世の武家政権で、もっとも篤く朝廷や、
織田信長は、はじめ、足利義昭室町将軍の後援を得ることで、さまざまな大義名分をおのがものとした。だが、義昭はみずからが幕府の経営者として、信長より上位に君臨することを望んだ――結句、両者の関係は破綻し、追いやられた義昭は毛利輝元の庇護を得た。
その後、信長は、朝廷に接近した。
この織豊政権二代にわたって向き合われたのが、
大毛利の、さすがの貫目であろう――
正親町天皇の御代は、戦国の傑物たちが、天皇という存在の尊貴にきづき、せっきょくてきにこれを上にいただこうとした時代でもあった。本願寺法主の顕如も、莫大な献納をおこなっていて、以後、本願寺「門跡」の称号を得て、殿上人に準じることとなる。
信長も、その広大な版図を傾けて朝廷財政を立て直し、正親町天皇の庇護を授かった――和睦や征伐のみことのりをたまわり、叡慮の尖兵となって平定をすすめた。
信長の親朝廷政略は、父親信秀以来のものだが、これが、織田政権を継承した秀吉にも引きつがれた。
空白の十二月――ひょうすべ四氏族の紐帯を固め、秀吉は、いよいよ秦氏らしくなっていく。
豪気に、
おごるのだ。
――さぶらふものは、あだやおろそかにはいたしませぬ! と……
いまこそ、古の約定を履行するときだと。
秀吉は、天正十五年十月、北野天満宮で大規模な茶会をもよおし、ここで、あの有名な黄金の茶室を披露している。
黄金趣味というのは、幾度か日本史に現れるが、つど異彩をまさしく色彩上でもひとびとに印象づけながら、ついに、なかなか根づかずに終わる……北方交易でさまざまな物産を得ていた奥州藤原氏、日明貿易の大家足利義満、そして豊臣秀吉と、いずれも貿易で財を成したひとびとが、この趣味に走っている。
外国の――異端の趣味なのではないだろうか。そも、黄金を、
ややふざけたはなしになってしまうが、岡左内という戦国武将は、ともかく、金銭が好きで、それも、金銭そのものが好きでならず、小判を床にザラザラとまいた上で、真っ裸になって寝転び、小判の感触を味わっていたという。これで豪毅な男で、尊敬されるべき人物とされていた。ここでも、小判は、つまり珍物としてあつかわれていて、岡左内はいわば、異彩を放つ美術品として金貨を愛したのであろう。ちなみに、岡左内は、蒲生家の臣である。