第13話
文字数 3,722文字
何と心の豊かな人なのだろうと、ハルトも泣きたいような気持ちにさせられ。敵対する相手にも同情し涙を流しそうになる人が日の当たらない場所でしか生きられないなど、それこそあってはいけないことだと確信した。
「ステファンさん、レオンさん、ごめん……俺たちは、貴方たちが生きられる世界に、させてあげられなかった」
ハルトは、素直な気持ちを言葉に乗せることにした。このまま気持ちに溝が出来たままにさせたのでは、きっとロッティと自分が望む世界は実現できないと感じていた。
「無知は言い訳にならない。このことは、俺たち人類全員が、きちんと理解しておくべきことなんだ。俺たちが普通に生きている世界の裏で、貴方たちのような人たちがいたことを。僕たちは長い間、貴方たちを……本当に、長い間苦しめ続けてしまった……本当に、ごめんなさい」
ハルトは深く頭を下げた。ステファンの覆った口元からわずかに漏れ出る嗚咽は静かに大きくなっていった。その嗚咽を浴びながら、それでもハルトは、零れそうになる涙を必死に堪えながら顔を上げ、ステファンたちに応えようとした。
「でもロッティが……俺の友達が、貴方たちと同じ立場であるにもかかわらず、俺たちと生きたいと……皆で生きていける世界があると信じたいと、言ってくれたんです。俺は、それに絶対に応えたい。だって俺も、同じ気持ちだから。俺も貴方たちやロッティに生きていてほしいから……だから、お願いします。もう一度、俺たちのことを信じてくれませんか?」
ハルトは、目頭が熱くなるのを感じながらも、それを溢れさせまいと必死に堪えた。視界はなみなみと揺れ、ステファンの赤い瞳には、自分の情けない顔が映っていた。
ステファンは泣き出しそうになりながらも、それを堪え祈るように手を組み、ハルトに向けて頭を下げた。
「初めまして、ハルトさん。夢で貴方のことは知っていましたが……貴方は、本当に心が綺麗な方ですね……ここの人たちが皆、貴方のような方だったらきっと、そんな世界もあり得たのでしょうね……けれど、私は世界がそうあれないことを知っています。話し合いや優しさでどうにかなるなら、初めからこんな世界になっていないと私は堅くそう思います」
顔を再び上げたステファニーの瞳には、強い決意が秘められていた。その赤い眼光に心を鋭く射抜かれたような気がして、ハルトは息が詰まった。
「知っていますか? ロッティさんをそのように勇気づけた方を……私たちにも優しくしてくれた彼女を、同じ人間が殺しているのですよ? ヨハンという私たちの仲間は、心から愛した相手に、異種族の者と知られ、お金のために帝都に売られたのですよ? レオンやノア、グランは、先ほども仰ったように、ここの人たちに、ただ怖いという理由で何度も殺されかけてきました。貴方のような心の綺麗な方が少ないことを……少なくとも、私たちのために世界を変えられるほどには多くないことを、私たちは胸が痛くなるほど知っています」
ステファンは毅然とした態度でハルトと向き合う。そこには泣き腫らした幼い顔はなく、凛とした顔つきでハルトを見ていた。ハルトもここで退くわけにはいかないと思いながらも、ステファンの紡ぐ言葉に込められた何十年もの積み重ねを思わせる深みに圧倒され、上手くステファンの決意を打ち砕くための言葉が思いつけないでいた。
ロッティとの約束が遠のいていくような感覚に、額を嫌な汗が流れる。そうして長いこと沈黙が漂う中、その静寂を破ったのは、それまでずっと静観を決め込んでいたレオンだった。
「もう、いい。ステファン」
レオンの言葉にステファンがはっと振り向く。
「色々考えたんだがよ……少なくとも、俺は負けた。だから、せめて俺たちはもう退いてやろうじゃないか」
「何を言っているのレオン!」
ステファンの激しい悲鳴が、ハルトの頭にびりびりと響いた。
「私たち決めたじゃない! 私たちからマティアスを奪ったこの世界を許さないって。これ以上大切な人を失わないためにも、戦って絶対に勝とうって!」
縋るようなその悲鳴に、レオンは申し訳なさそうに頭を垂れる。ステファンは何かを察したようにレオンの大きな頭に抱き着く。
「嫌だ! もう私を置いていかないでよ! マティアスも貴方もいない世界なんて、私いらないから!」
「……わりいな……全部、負けた俺が悪い。それに……」
泣き喚き、身体に顔を埋めるステファンを尻目に、レオンはゆっくりとハルトの方へ視線を動かした。対峙しているときは魔物以上に恐ろしい存在のように感じられたが、今見せているビー玉のように光り輝く群青色の瞳には、どこにも敵意は感じられず、決して化け物なんかではない一人の人間が確かにいた。
「お前、ロッティのダチなのか」
「あ、ああ、そうだよ。ロッティとは十年近い付き合いだ。まだまだ分かってやれてない部分はあるけどな……でも、そんなのは関係ない。あいつは俺の、友達だ」
「…………同じことを言うんだな、あいつと」
「え?」
レオンの口角がわずかに上がった。にやりと笑った、とハルトは思った。
「俺たちは確かに長いこと人間を見てきた。けど……お前らが未踏の大陸と呼ぶ所の出身だと分かっていながらも、俺たちのような存在に対してそんな風に言ってのけた奴は、俺の記憶にはいない、かもな」
レオンの口から光が零れ始めたと思った途端、全身が微細な光に包まれていった。始めてみる現象にハルトは身構えたが、それが攻撃の意図のあるものではないことはレオンの力の抜けた様子から明白だった。ステファンは言葉を失い、目を見開いたままレオンの頭に再び抱き着いた。まるでレオンがどこかへ連れ去られそうになっており、それを必死に食い止めようとしているかのようにステファンは激しく泣きじゃくった。
「俺は世界を許せない……けど、マティアスの命を奪ったのは、そんな俺の、世界への恨みが原因だったんだ。俺がその矛を収めれば、きっと何も失われない」
レオンはステファンを優しい目つきで見やる。巨大な尻尾をぶるぶる振るわせ血や土汚れを飛ばしたかと思うと、抱き着いたままのステファンの体をそっと包んだ。ステファンを見守るその様子はまるで娘を想う父親のようであった。
「なあ、ハルトとやら、約束してくれるか。こいつ……ステファニーって言うんだが、こいつの命だけは、どうか助けてやってくれねえか。この世界の人間なんざ信用しちゃいねえし、お前の言うように世界が変われるとも思っていねえが……ロッティと同じことを言って、ロッティを受け入れられたお前のことだけは、信用してやる」
レオンがハルトのことを真剣な眼差しで見つめてきた。その眼差しに、単なる約束を超え、ステファニーという一人の女性以上に何か大事な物を託してくれたような感じがして、ハルトの頬は緩んだ。
「ああ……もちろんそのつもりだ」
その答えにレオンは再びニヤっと笑った。満足したように穏やかな表情のまま、懐で泣きじゃくる娘の頭に鼻先を近づけた。
「だとよ。だから、死ぬんじゃないぞステファン」
「何で……何でレオンは行っちゃうのよ……置いていかないでよ」
「悪い……これしか、お前が生きられる方法、思いつけなかった」
「ひどい……ひどいよ。私、もう永くないのに……最後まで一緒に生きたかったよ……」
「……なら、意地でも長生きしてくれ。そうしたら、また会いに行けるから」
「……っ……」
「だから……その間は、こいつや、ロッティの奴と、楽しく過ごせや……」
ステファニーが何も答えられないまま、レオンは光に包まれていき、やがて無数の光の粒となって空へと舞った。ステファニーはレオンの体がなくなったことで倒れこみそうになった身体を起こし、空を見上げた。空に舞った光の粒は次第に見えなくなっていった。すっかり夜が明けた空は、雲一つない寂しい青空を表していた。
そのままステファニーは手を組み、空に拝むように深く目をつぶった。
「絶対……また会いに行くから……早く戻ってきてよ……」
閉じられた瞳から、もう何度目かの涙がまた一筋、二筋と流れていった。いつまでも空に祈り続けるその健気な仕草は神々しく、ハルトたちは誰もステファニーに近づけないでいた。
ふとハルトの肩にシャルルがぽんと置く。シャルルは複雑そうに表情を曇らせていたが、やがてもう一度ステファニーのことを見ると、ふっとその表情を和らげ、憑き物が落ちたような清々しい顔つきになった。ハルトも、肩に圧し掛かった重みを感じながらも、すっと全身から力を抜いた。