第11話
文字数 3,170文字
「イグナーツは来ないのか」
「俺はここで念の為見張っておく。ここは一方通行だから、魔物が入ってきたら色々と面倒だろう」
「……魔物はやはり、この近辺にいるにはいるんだな?」
それまでブラウの判断に従って黙っていたクレールが、低い声でイグナーツに尋ねた。イグナーツが一瞬だけ、じろりとクレールを鋭く睨んだ。
「ああ、もちろんいる。分かったら早く行ってきたらどうだ」
イグナーツはそこで話は終わりだとでも言いたげに、雪山に寝転ぶように身体を預け、吹雪く雪景色を睨みつけるように眺めていた。普通に考えれば得物も何も持っていなさそうなイグナーツに魔物を追い払うことなど出来ないように思えるが、イグナーツのその態度には堂々とした余裕が感じられ、それが出来ると思わせるだけの圧は確かに放っていた。ブラウは軽くイグナーツにお礼の会釈をしてから洞穴の中へと入っていった。アベルたちもそれに続いて中に入っていき、ハルトもそれに続いた。
ハルトは入る寸前、もう一度イグナーツの様子を確認した。寝転んだのはポーズで実際はいつでも臨戦態勢に入れるほど気を張っているのかと思っていたが、本当に雪山に寝転ぶように脱力しており、疲れ切ったような顔をして吹き荒れる雪を眺めていた。鋭い目つきも、分かりにくいが、本当にただ景色を眺めているかのように細めているだけのようだった。そのイグナーツの様子が気にかかりながらも、ハルトは皆の後について洞穴へと入っていった。
洞穴の中は思ったよりも狭く、大人が二人並んで歩くのが精一杯ぐらいであった。そして、道もそこまで長くなく、入って進んできたかと思うとあっという間に向こう側から光が差し込んできた。先頭を歩いていたブラウたちが「おおー」と緊張感の欠片もない感嘆の声を上げていた。しかし、その歓声振りからして、何か手がかりになりそうなものを発見したわけではないのは一目瞭然だった。
「なあルイ、ここに来るまでで何か見つかったか」
横を並ぶルイに尋ねてみるが、当然のように首を横に振った。ちなみに罠は洞窟の入り口に置いて来たらしく、それまでずっとそれを持っていたからか今は随分と身軽そうにしていた。
「なかったよ、ハルトも知っての通り」
その後入れ替わるようにして光の差し込む方に出ることになり、ハルトもその光景を見た。
そこはまさに、ハルトたちが先日行き止まりで立ち往生していた場所であったが、上から見た景色はまた一味違っていた。初めて訪れたときは氷光花に囲まれ、明るいはずのない洞窟の中が青白く照らされ、氷柱が反射する光が幻想的に光っていた、そんな光景が広がっていたが、それを高いところから見下ろすと、それらが小さくまとまって全体が煌めいた光に包まれていた。そこには小さな宝石を一つの箱に収めたような美しさがぎゅっと詰まっており、ハルトはそれを前に呆然と立ち尽くしていた。
「……おーいハルトー、そろそろ行くぞー」
ルイの呼ぶ声で我に返ったハルトは、後ろ髪惹かれる想いでその景色を後にして、再び松明の明かりだけが頼りの洞窟を進むことになった。短い帰り道、どうしてイグナーツは何もないところなどと言ったのだろうと、ハルトはぼんやりと考えていた。
洞穴を抜け出て、視界が一面真っ白の世界に染まると、洞穴に入ったときと同じ格好のままのイグナーツがそこにいた。魔物が襲ってこなかっただけなのかどうかは分からなかったが、イグナーツには雪以外何一つ目立つ汚れがなかった。イグナーツが「それで、これで用は終わりか」と訊いてくるが、ブラウが即座に「もう一度洞窟の中に入ってみる」と皆の答えを代弁した。イグナーツは「そうか」とだけ呟くと、そのまま黙ってどこかへ向けて歩き始めた。それが洞窟の入り口まで案内してくれているのだと気がつき、ブラウたちは急いで後を追いかけた。
洞窟の入り口まで戻り、ルイとアベルは律義に罠を手に持って一緒に運びながら、『ルミエール』は中へと進んでいった。今回はイグナーツも洞窟の中にまでついてくるようで、ハルトの傍らを歩いていた。
洞窟の中は相変わらず魔物の声一つすら聞こえてこない静かな洞窟で、氷光花が咲き誇る場所まで来ても静かに洞窟の中が照らされてるだけで自分たち以外に何か生き物がいる気配はなかった。
「なあ、坊主。お前の名前は何て言うんだ」
イグナーツのその声が、自分を呼んでいるものだということにハルトは一瞬気がつかなかった。
「俺のことか。俺はハルト。よろしく、イグナーツさん」
てっきり交流を求められているものと解釈し、ハルトは握手を求めるように手を差し出すが、イグナーツは一向にその手に応じなかった。応じてくれる気配のないのを悟ってハルトは渋々その手を引っ込めた。
「お前らのリーダーもそうだが……どうしてそう簡単に俺に気を許せる。俺は素性をほとんど明らかにしていないんだぞ」
「……じゃあ逆に訊くけど、イグナーツさんは俺らに気を許さないで欲しいのか?」
ハルトの質問にイグナーツは顔を顰めながらも、言葉に詰まっていた。怒らせたら怖いだろうなという要らぬ感想を抱きつつも、ハルトはそのイグナーツの様子から、やはり悪い人間ではないと確信していた。緊張していたわけではないはずだが、肩から一気に力が抜けていく感覚が確かにした。
「素性なんて……どうだっていいんだと思う。俺と団長は。だって、よく分からない人たちばっかり集まってる団体だしな、俺たち」
口を挟むことなく黙って話を聞いていたイグナーツは、何かを考えるように眉間に皺を寄せていた。ハルトは、改めて『ルミエール』の面々について考えてみた。
「俺もルイも、団長も、孤児だったところを拾われてきた。ジルさんも天涯孤独だし、それに今はここにいないけど、ロッティって奴も俺と同じ孤児だったんだ。だから、今更素性の分からないってことが悪い印象に繋がることは少なくとも俺たちにはないんだよ」
「……そうか」
イグナーツは感心しているともしていないとも、どちらともとれないトーンで呟くと、それっきり黙ってしまった。相変わらず眉間に皺を寄せたままで、いまいち何を考えているか読めない表情をしていたが、ハルトはその皺に、イグナーツは自分の思いもよらないような何かについて深く考えを巡らせているのだろうと予想していた。
そんなことをぼんやりと考えていると、洞窟の先の方でくぐもった悲鳴が聞こえてきた。耳に冷や水を浴びせられた想いになり、現実に引き戻されたハルトは気を引き締め直すと、すぐにある異変に気がついた。
「まだ新しい臭いだな……」
イグナーツが感情を押し殺したような声でぼやいた正体は、死臭だった。それも、生々しい血の臭いとともに、強烈に漂ってきていた。ハルトは鳥肌が立ちそうになるのを押さえ、息を潜め暗闇の先を睨んだ。近くに並んで歩いていたルイも息を呑み、同じように警戒した様子で武器に手を掛けていた。
警戒を強めたブラウたちは、慎重な足取りで少しずつ歩を進めていった。再び暗いトンネルに差し掛かり、松明に火を点けるが、その灯りが途端に頼りなく感じられた。トンネルの途中にその遺体があるのか。それともそのトンネルが明けた先の、先程美しいと感じたあの光景の中に転がっているのか。それを想像して、ハルトは悔しさと、それを遥かに上回る、胸を突き動かすほどの激しい怒りに捕らわれた。トンネルを歩いている時間が、やけにじれったく、長く感じられた。一刻も早く飛び出して行って、犯人をとっ捕まえたい衝動が大きくなっていった。
ようやくトンネルの先の光が目始めてきて、ハルトは怒りを必死に理性で抑えながら、潜んでいるかもしれない敵に対する警戒心を一層強めた。