第4話
文字数 3,560文字
「あの子供は、数年前に親を亡くしています」
ロッティは思わず息が詰まった。バニラはそれに気がついているのかいないのか、淡々とした口調で話を続けた。
「元々孤児だったらしいのですが、ある女性があの子を引き取ったとのこと。あの子はその女性に大変懐いていましたし、それを私もお嬢様も知っていました。その女性は不思議な方で、その少年の考えていることを見通して、可愛がっていました。ですが、ある日突然その女性は姿を消し、あの子はすっかり憔悴してしまっていました。その日からお嬢様はあの子のことをずっと気にかけていました。何度かグラン様のところへ連れて行こうともしたのですが、あの子はそれを拒否しました」
バニラは少しだけ懐かしむような目でアリスの後ろ姿を眺めた。
「お嬢様の懸命な姿を見続けてきた下町の他の人間も、お嬢様に協力して、何とかあの子が死なないように見てくれていました。ですが、あの子は一向に落ち込んだまま、亡き母親の姿を待ち続けているのです」
バニラの話は、そこで終わった。バニラが何故その話をしたのかが気になったが、わずかに隣から感じる圧に、ロッティにも見ていて欲しいと頼まれているのだと気がついた。
ロッティは、言われずともあの少年を気にかけるつもりでいた。その少年のことについて知れば知るほど、その少年の気持ちが分かるような気がした。ロッティには少年の姿が、かつてピリスと養親を自分のせいで亡くなったと思い込み、『ルミエール』の皆といても寂しいと感じる孤独感を味わっていた自分自身に重なっているような気がしてならなかった。そしてその悲しみを幼くして感じているあの少年の心を思うと、ロッティの胸もひどく痛んだ。
グランの小屋に戻ると、グランはガーネットが淹れたらしい紅茶を飲んですっかり寛いでいた。ロッティたちに気がつくと、目だけで会釈した。アリスは飛びつくようにグランに抱き着き、グランも柔らかい笑みで迎え入れた。バニラもガーネットと真剣な表情で話し始めた。ロッティはまだ抜けきっていない旅の疲れと、初めてアリスと下町に訪れた疲労とを癒そうと自分の部屋に戻ることにした。
「おい、ロッティ」
アリスと会話していたグランにふいに呼びかけられ、ロッティは顔だけそちらへ向ける。アリスに抱き着かれていながらもグランの目は笑っていなかった。
「お前、あんまり深追いすんなよ。どうせ碌な目に遭わねえよ」
「……それをグランが言うのか?」
「まあ……それもそうだな」
アリスが二人の会話に興味を示し、不思議そうにグランに尋ねるが、グランに頭をくしゃくしゃにされ嬉しそうな悲鳴をあげた。今度こそグランの目は笑っていた。ロッティは自分の部屋へと戻っていき、ベッドの上にごろんと横になった。天井をぼんやり見つめながら、今日出会った少年のことを思い返していた。しかし、その振り返っている記憶に、先程のグランの言葉が呪いのように付き纏ってきて、良い気分のしなかったロッティは思考を放棄し、そのまま静かに目を瞑って眠ることにした。
それからアリスの下町訪問に付き合う日々が始まった。アリスは時には焼き菓子を作って下町の住人に配っていき、時には読み聞かせのための本を持って行ってそれを読み上げた。そして毎回必ず、住人の話に耳を傾け、一緒に笑いあったり悲しんだりしてみせた。アリスは少しも偉そうにはせず、すっかり元からそこの住人であるかのように何の違和感もなく下町の人たちの輪に溶け込んでいた。自然体で人々に光をもたらしていくアリスの姿とアリスと感情を共有し合えている人たちの姿に、ロッティはアリスの存在の大きさをありありと感じていた。
下町に訪れる際、ロッティは必ず親を失ったという少年のことを意識して臨んでいた。なるべく少年の近くに座り、息遣いを共にし、少年の瞳に映るのと同じ風景を見ようとした。そうして地面を見つめていると、やがて赤い日差しが差し込んできて、ぼろぼろの窓から隙間風が入ってきて、時間の経過を直に感じることが出来た。こうして来る日も来る日も時間が過ぎていくのを感じながら、少年はどんなことを考えていたのだろうかと、ロッティは想像力を働かせていた。
ロッティがその少年に対して特別に肩入れしていることは、ガーネットにもすぐに見抜かれた。アリスも帰り、グランが気ままに部屋で横になっているときだった。
「ロッティはどうして、その子の力になりたいと思ったの」
目を伏せがちに、黒い瞳のまま寂しそうにティーカップの液面を見つめていた。黒い瞳は相変わらずどんな感情も表しておらず、その瞳に映る紅茶も波立つことなく凪いでいた。
「そう訊かれると上手く言葉に出来ないけど。でも、どうにかしてあげたいと思っただけだ」
我ながら、上手く自分の想いを言葉に出来ていない答えだと思った。しかしガーネットはすべてを見透かしたように「そう……」と答えると、泣き笑いするような複雑な表情をしながら、優しい瞳でロッティのことを見つめてきた。徐々に変わっていく赤い瞳が潤んでキラキラと輝き始めた。ロッティはその赤い瞳が好きだった。
アリスが来ない時間帯においては、基本的にロッティが生活に必要なものを買い出しに行くことになっていた。幻獣族であるグランは何も口にしなくても大丈夫らしいのだが、それ故に人の生活に必要なものなど何も分からない、粗雑で生活感のない男だった。ガーネットも、人の多い帝都ではいつトラブルが起きてコンタクトが外れ、人を見るだけで赤く変化する瞳を目撃されてしまうか分からないことから、ロッティは買い出しには自分が行くと宣言した。その際、グランには「過保護だな」と呆れられ、グランの言葉に頬を仄かに赤らめさせたガーネットには「ロッティの好きにしたら良い」と抑揚なく言われた。グランのアリスに対する接し振りを知っているロッティは、グランにそんなことを言われる筋合いはないと心の中で毒づいた。
「おーい、ロッティ君」
旅の合間にアリスが建てたグランの小屋でお世話になり、その日々の間にアノンという男と知り合い、やがて話をする仲になっていた。初めはロッティも覚えていなかったのだが、アノンが馴れ馴れしく、かつ熱っぽく色々と話しかけてきたことでようやく、シリウスで一度フルールと一緒に訪れた人の一人であったことを思い出した。フルールと一緒に世話しに行った人など何人もいるはずで、ロッティ自身何故思い出せたのか不思議だったが、何か印象的なことを話していたような覚えは確かにあった。
「少し話す時間ないか?」
随分と落ち着いた口調で呼び止められ、ロッティは帝都の住宅街の中央に聳え立つ時計台を見上げた。時間的にはまだアリスが来る時間ではなかった。ロッティは大丈夫だという風に目配せし、それを察したアノンも無言のままどこかへ向かって行き、ロッティは人垣を分けてその背中を追いかけた。
アノンはいつも時計台の上で話をしたがった。初めはその意図が分からなかったロッティだったが、時計台から眺める帝都の街風景は壮観で気持ちが良いものだったため、特に何も言わなかった。アノンは楽しそうに熱っぽく話すこともあれば、シリウスで会ったときの印象と違って落ち着いているときもあった。政治の話だったり、最近進みつつある発明の話だったり、話す内容も様々で、この世界のことについてひたすらロッティと意見を交えたそうにしていた。それらを語るときの瞳は、悟りを開いたかのように超然としていた。
「俺は最近になって、何だか疲れて来たんだ……」
今日のアノンは、遠くを見つめるように街の景色をぼうっと眺めていた。そこにはどこかこのまま街へと飛び降りてしまいそうな危うさがあった。
「どうしたんだ、最近何か……何かあったのか」
「……俺は、何のために生きてきたんだろうなって」
その言葉は聞く人が聞けば危機感を覚えるようなものだったが、ロッティにはアノンは決して自殺やそれに類することをやらないという確信があった。
「自分の思う生活のために、シリウスでも機械工を学んだり、色々してきたが……悩みが尽きぬまま、月日はあっという間に過ぎてしまった。自分の中の九割ほどは、このまま突っ走れば良いんだと言ってくるんだが、残りの一割が、本当にこれで良いのかと、ずっと、問いかけてくるんだ……」
「……一番この世界に恨みを持っているであろう幻獣族でも、そんな風に思うんだな」