第2話
文字数 3,200文字
『ルミエール』にいたときにも夜目での戦闘の経験は少なくなかったが、そのときと今とでは状況が違っていた。
「下がってろ、ガーネット!」
ロッティが瞬時に後ろを振り向くと、夕闇に紛れて数個の大岩のような黒い影がこちらに近づいてきていた。黒いシルエットの中に赤く輝くものがあり、その赤い輝きが獲物を捕えんばかりにこちらを睨み、身構えていた。近づいてくるにつれて姿が分かるようになると、四つ足が長く、足が早そうな印象を受けた。それらの魔物は、こちらの出方を警戒するように暗闇に染まる黒い毛を逆立たせていた。
空気が張り詰め、胸の鼓動が早まる。五感が研ぎ澄まされ、敵の一挙一動を見逃すまいと集中力が高まる。『ルミエール』にいた頃にも、街を飛び出した時にも何度も魔物と対峙することはあったため、ロッティももうすっかり落ち着いて敵の様子を窺うことが出来た。
ロッティは魔物の赤い瞳を見つめ、地面を震わす魔物の唸り声を聞き、体の輪郭を把握して、首の位置を確認する。
夜目での戦闘の経験は少なくなかった。剣を扱ったときも少なくない。ただそれでも、二人しかおらず、傍らにいるのが戦闘に慣れていなさそうな女性であるというこの状況で頼れるのは、自身の剣の腕よりも、生まれついて持った唯一の能力の方だった。
決着は一瞬だった。瞬く間に魔物たちの首は地面に落ち、大岩のような大きい身体はやがてゆっくりと力なく倒れていった。自身たちを襲わんとする殺意のなくなったのを確認して、ロッティも気を緩める。
「……ガーネット、大丈夫か?」
「……うん、大丈夫」
ガーネットの返事はいつもよりか細かった。ガーネットは、ロッティの名前も、所属していた団体も、この能力のことも何故か知っていたが、実際にこの能力を目の当たりにしたのは初めてようで、しばらくその場から動けずに言葉を失っていた。ロッティも目の前の凄惨な光景から背け、何も染まっていない自分の手を見つめた。どこからかハルトの称賛が聞こえてくるようだったが、いくら耳を澄ましてもそれは聞こえず、ガーネットの乱れた荒い息づかいが聞こえるだけだった。風に運ばれてくる匂いは、草の匂いではなく血生臭いそれだった。この能力で人を守れることはあっても、人を幸せにするものではないことを、これまでの経験から理解していた。
ロッティが自分の手を見つめたまま黙っていると、ガーネットが、肩をすぼめ、小さく震わせながらも、そっとロッティの方に歩み寄ってきた。
「ロッティ……貴方の苦しみを私は分かってあげられないかもしれない。だけど、その能力が必要になるときは必ずやってくる。だから、無駄にしないで」
これまで淡々と話していたガーネットにしては珍しく、たどたどしく、感情的な言葉だった。しかし、何故だかその言葉はロッティの心にすっと染み渡った。ガーネットの方を振り向いてみても暗闇に隠れて表情はいまいち分からなかったが、これまでにない、緊張したように息を呑む気配が伝わってきた。風に靡く長髪が、ゆらゆらと頼りなく揺れていた。
ふと気付くと、手に力が入っていたようで、力を緩めるとびっしょりと汗で濡れていた。ロッティはその汗を切るように軽く手をぱっぱっと振った。
「……ありがとう。ここから離れたところで、また野営の準備をしよう」
これからどんな旅になるかはロッティには見当がつかなかった。しかし、果てしない予感がするこの旅路で、隣にいるのはガーネットであるのは、そう悪いことではないような気がした。旅のパートナーは、わずかに口角を上げてゆっくりと頷いた。
人の気配も少なく、寂れた草原の風景が続くだけの道を馬車も使わず歩き続けて、ユースケたちはようやく街の見える高い丘に出た。ちょうど帝都を出発してから一週間後ぐらいのことであった。
ここまで来るのは、そう困難な道のりではなかった。あらかじめ用意していた食糧が足りなくなれば、魔物の肉や木の実、食べられる草を収穫して、飲み水も、多くの地域で群生し水を多く含むレイケンの葉から回収して、それを煮沸して飲んだ。旅で汚れた体も川の水を利用して必要最低限には洗うことは出来ていた。
「あの街が、目的地……で良いのか?」
丘から遠巻きに見えるその街はさほど大きな街ではなさそうだった。『ルミエール』にいた頃にも訪れたことのない街であったが、そのこぢんまりとした街並みを眺めていると、ふと、かつて自分を拾ってくれた両親のいた街が頭の中に湧き上がった。街の向こう側にはかすかに海が見え、そんなところもあの街を彷彿とさせた。
「うん、ようやく着いたね」
ロッティよりも数歩前に歩き、丘から落ちてしまいそうなほど端の方まで行って街を一瞥すると、ガーネットも一安心といった様子でほっと一息ついていた。
ロッティは懐かしくも苦い風景を思い出しているうちに、リュウセイ鳥の読み聞かせと、そこで知り合ったセリアとブルーノの顔を思い出した。
「そういえば、リュウセイ鳥の読み聞かせってあったな」
「読み聞かせ……?」
「ああ。えっと……子供の頃いた街で読み聞かせがあって、それがリュウセイ鳥に関するやつだった。確か、昔ある人が、大切な人の為に大陸に渡ってリュウセイ鳥を連れてきたっていう話だったはずだ」
「その話ね……私も、知ってる」
ガーネットはロッティの話に興味を示したのか、端まで行った身体をロッティの方に近づけた。まともに身体を洗えていない旅路だったのにもかかわらず、ふわりと良い匂いが香ってきて、ロッティはどぎまぎする。
「確か、その話に出てくる大陸が、未踏の大陸って言われている話よね」
ガーネットの言った未踏の大陸については、『ルミエール』にいた頃に聞いた話だった。
世界に存在している大陸は、奇妙なことに、地続きではないが、ドーナツ状に展開している大陸と、そのドーナツの空いた部分に相当する場所に存在する、中央の大きな大陸に別れていた。人が住んでいるのは、このうち、ドーナツ状の大陸だけであり、世界の中心に位置する中央の大陸は、未だ誰も移り住むことも、それどころか渡航することすら叶っていないという。その特徴から、未踏の大陸と呼ばれ、世界中の冒険者たちの浪漫の場所として神聖視されている。
「話に出てくる大陸が未踏の大陸だっていうのは冒険者たちがそうあって欲しい、ていう願望みたいなものじゃないのか? 『ルミエール』の皆もその期待はあったみたいだけど、今のところ誰も未踏の大陸には渡れてないんだろ?」
「……もしかして、リュウセイ鳥の伝説も、信じていないの?」
ロッティはそうだと返事するつもりであったが、ロッティの方を振り向いてきょとんとした顔を浮かべるガーネットの表情に、思わず口を噤んでしまった。しかし、ガーネットには十分に伝わってしまったのか、その表情に小さく翳が差した。
「火のない所に煙は立たない、と言うじゃない? それに、背景がどうであれ、リュウセイ鳥の伝説が本当だったってはしゃぐ人もいるみたいよ。さあ、行きましょ」
「そういうもの、かな……」
ガーネットは初めて会ったときと変わらない無表情になって頷き、そのまま道なりに降りていった。
ロッティはガーネットの背中をぼんやりと見つめていた。ガーネットの不思議な語り口は、まるで世界を見通す高位な存在のように、堂々とした自信と、聞くものを不思議と納得させる響きを持っていた。それと同時に、いくつかの疑問が湧いたが、ガーネットを纏う、どこか他人を簡単には近寄らせないとする雰囲気に、ロッティもそれ以上詮索する気にはなれなかった。