第2話
文字数 2,768文字
「はーい」
綺麗な長髪の女性が描かれた絵画を熱心に見つめていたロッティは、母親の呼ぶ声に、その絵画を名残惜しそうにしながらも母親の元へと駆けつけた。石畳の街道を走るとコツコツと音が鳴った。母親は買い物袋を両手に掲げながらロッティが走って来るのを見守っていた。
昼下がりの広場は、店前で競い合うように声を張り上げて客を集めようとしている人たちと、その呼びかけに足を止めたりそのまま素通りして別の店を物色する人たちとで賑わっていた。静かな自然に囲まれた孤児院で育ったロッティにとっては賑やかすぎるもので、母親の買い物についていくもその店の人の大きな声が苦手で、ちょうど呼び込みもない静かな絵の店で時間を潰していたところだった。
ロッティを引き取った夫婦の住む街は、一年を通して暖かくこぢんまりとした街であった。他の都市や街と同じように深く広い川に囲まれた平原に存在しており、魔物の脅威に晒される心配もほとんどなく、街の人たちは危険とは縁遠い平穏な生活を送っていた。街全体がおしゃれな石畳で敷き詰められ、その中心には広場があり、北上していくにつれて標高が高くなっていく。一番北の方にある高台からは街全体と街の向こう側に広がる海が一眸でき、耳を澄ませばユリカモメの鳴く声が聞こえてきた。
買い物を済ませた母親と共にロッティは緩やかな斜面を登っていき、赤い屋根をしたレンガ造りの家に到着した。ロッティを引き取った夫婦の家である。
「ただいまー」
家に帰ったロッティは靴を脱いで揃えるとすぐに二階へと上がり自分の部屋に入っていき、窓際に腰掛けた。十分に北に登ったロッティの家から窓を開ければ、高台から眺めるほどではないにしろ、街全体がよく見えた。わずかに傾いた夕陽が差し込む街並みと、その街並みを様々な人たちが歩くのを眺めるのが、ロッティの最近のお気に入りだった。視線を少し上に上げれば、海がかすかに見えて、それをじっと眺めていると波の音が聞こえてくるようであった。その波の音に、ロッティはピリスとの別れ際の言葉を思い出していた。
『自分の幸せを探す旅に行ってらっしゃい』
ピリスの元に訪れた夫婦、今の家庭に引き取られてからもロッティはピリスの言葉を忘れたことはなかった。窓際から海を眺めるたびにこの言葉を思い出しては、その答えを探すように窓の外や丘の上から街の様子を見渡した。しかし、その言葉ががっちりと当てはまるような、しっくりくるものには巡り会えず、もしかしたらまだあの箱庭から大きな世界を眺めているだけではないかと不安になりながらも、その約束を忠実に守ろうとしていた。
引き取ってくれた両親にロッティは不満を抱いているわけではなかった。孤児院にいたときよりも美味しい料理が、しかも毎日出てくるのにはひどく感動し、普段より暑くなった日には海水浴に連れて行ってくれた楽しい思い出もある。しかし、どうしても今の両親からよそよそしさを感じ取ってしまい、それに敏感だったロッティはその両親に対してどう接すれば良いのか、二年経っても未だに分からないでいた。
どれだけの時間が経っただろうか、しばらく窓の外を眺めていると、赤い風船がふわふわと浮かび上がって樹に引っかかるのが見えた。その樹の下にはロッティよりも小さな子供が、今にも泣き出しそうな顔で風船を見上げていた。迷子なのか、辺りに両親らしき人はおろか、その子以外に誰もいなかった。そのことを確認したロッティは、樹に引っかかっている風船を視界に捉えるとその動きを『止め』、そのままその風船を子供のところまで『動かし』た。泣き出しそうだった子供は急に降りてきた風船を呆然と見つめながらもきちんと風船を受け止めた。目の前で起きた奇妙な現象については深く考えなかったようで、子供は風船が戻ってきたことに素直に喜び、はしゃぎながらどこかに行ってしまった。
大丈夫、ロッティは自分に言い聞かせた。いつの間にか両手には汗が滲んでおり、ぶらぶらと手を振ってその汗を切った。生唾を飲み込み、子供がいた周辺を改めて確認するが、やはり人の気配はなく、ほっと息が漏れ出る。
「ロッティ、そろそろご飯よ!」
母親の声で、自分の部屋にまで良い匂いが薫ってきているのに気がついた。母親の声に一瞬冷やっとしたが、怯える必要はないとすぐに気を落ち着けて、ロッティは静かに窓を閉めて下に降りた。
夕飯を終え、かちゃかちゃと音を立てながら母親が食器を洗っていた。ロッティは居間でぼうっと、本棚の横に鎮座している観葉植物を眺めていた。孤児院にいたときに見かけてきた植物と違い、歯の一枚一枚が何だか偽物っぽく見えるが、これでもきちんと生きた植物だというのが信じられない気がして、つんつんとつついてみる。
「ロッティは外で遊ぶのは好きじゃない?」
不意に母親がロッティを振り返る。母親の濡れた手から水滴がぽたりと床に落ちた。
「うーん……外で遊ぶって、どう遊ぶの?」
「この間ロッティに買ってあげたボールを使って、こう……ね?」
母親が何かを蹴るジェスチャーをしてみせるが、ロッティは首を傾けた。孤児院にいたときも、基本的には自然の中を歩いて眺めているだけで十分な気がして派手に遊んだことはなかったため、ロッティにはそういう想像があまり働かなかった。
「あら、孤児院の所では外で遊ぶってことはあまりしなかったのかしら……」
母親が悩ましい顔でぶつぶつと小さく呟くと、食器もそのままに「ちょっと待っててね」と言って居間を飛び出していった。ロッティがぽかんと母親のいなくなった方を見つめているとすぐに母親は手にチラシのような物を持った状態で戻ってきて、ロッティに見せつけるように広げてみせた。
「今日買い物でもらってきたのよ。どう? 興味あるなら今度行ってみる?」
そのチラシの真ん中に丸っこい字で大きく『皆で昔の物語を読んでみよう』と書かれていた。どうやら子供のための行事のようで、可愛らしい動物や花の絵が文字の周りを囲んでいた。慈善活動を行っている団体がたまに街を直々に訪れてこのような催し物をやっているという。特に興味を惹かれたわけではないが、ピリスもよく読み聞かせをしてくれていたことを思い出し、それに母親がわざわざ持ってきてくれたのだからという気持ちもあり、ロッティは「うん、行ってみたい」と返事した。すると、母親は嬉しそうに笑みを浮かべてぽんぽんとロッティの頭を撫でた。
「楽しみね」
そう言って母親はチラシを机の上に置くと再び食器洗いに取り掛かった。そんな母親の背中をロッティは不思議そうにじっと見つめていた。その背中を見ている内に、何故だか心が温かくなっていった。
そして、皆で昔の物語を読んでみよう、その催し物の当日になった。