第22話
文字数 2,537文字
街を歩いているときには気がつかなかったが、建物の屋上から街の様子を眺めてみると、人は思ったよりも俯きがちで下を向いて歩いている人が多かった。屋上に上がると風が自分の髪を攫っていかんばかりに強く吹き、顔にかかるのがどうしても邪魔だった。いっそ思い切って髪を短くそろえてみようかとぼんやり考えながら、ガーネットは銃口を目の前の男に向けた。自分が上がってきたことも、銃口を構えていることもすべて耳で確かに聞いているはずなのに、男は腕を力なくだらんとさせたまま身じろぎ一つせずに俯いて地上を眺めているだけだった。
「何しに来たのかな、ガーネット」
棘のある言い方ではあったが、どこか力がなく、面倒臭そうにしているのが嫌でも伝わってきた。
「貴方こそ、『ルミエール』をまだ監視して、何をしようというつもりなのかしら」
ガーネットは躊躇なく引き金に指を添える。今ここで引き金を実際に引いてもほとんど意味がないことは知っていたが、それでも引き金に指を添えているだけで安心感が断然違った。
その男、ヨハンはゆっくりとこちらを振り向いた。顔には明らかに疲労が滲んでおり、額にと両腕に巻かれた包帯がヨハンが疲弊しきっていることを物語っていた。ガーネットの存在を認識すると、ヨハンは小さく苦笑する。
「まったく、ニコラスの奴も乱暴だよね。その傷を見たステファニーも大袈裟で、めちゃくちゃに泣きながら包帯をぐるぐる巻きにされたよ」
「相変わらず質問に答えない男ね」
まるで久しぶりに再会した旧友のように気さくに語りかけてくるヨハンに、ガーネットは銃口の構えを強くさせた。答えを催促しようとわざとカチャっと音を立てる。しかしヨハンはかつてのときのように喉奥でくっくっ、と不気味に笑うだけであった。ガーネットと違う淡い金色の長髪が靡き、ヨハンはそれを鬱陶しそうに首を振って払った。
「君の方こそ、相変わらず意味もなくその銃を僕に向けるんだね。とりあえず、今は僕も剣とか持ってきてないし、暴れるつもりはないから安心しなよ」
ヨハンは無抵抗であることを示すかのようにその場に座って、再びこちらに背を向けカルラの家の方をぼんやり眺めていた。垣間見えたヨハンの感情に、ガーネットも銃を懐にしまい、ヨハンのことをぼんやり見つめていた。その背中がひどく小さく感じられ、胸が苦しくなり、掛ける言葉が見つからなかった。
「まだ僕に何か用かな? 君も僕のやろうとしているつまらないことを読み取ったはずだけど」
ヨハンの態度はどこまでも冷たく、決してガーネットを寄せ付けようとしていなかった。
「貴方は……また帝都に指名手配されてまで、そちら側に着くというのね」
「…………七十年振りだよ。しかも、当時の遺産にもばっちり出くわすし、本当つくづく運命ってやつは恐ろしいもんだね」
ヨハンの言葉はどこまでもつまらなそうに響いた。その響きは、決して普通の人間には出せない、ミスティカ族だからこそ出せるものであり、ガーネットには泣きたくなるほど馴染んだ響きだった。その言葉に込められた感情が理解できるからこそ、ガーネットは未だに心が割り切れず、執着するようにヨハンの背中を見つめていた。しかし、ヨハンはそんな迷いのあるガーネットを拒否するようにこちらを振り返ろうとはしなかった。ガーネットもこれ以上ここにいても意味はないと感じ、後ろ髪惹かれる思いでヨハンを屋上に置き去りにして行くことにした。
階段を下りていく際、小さなため息が聞こえてきた。それが自分のため息だったのか、それともヨハンのものだったのか分からないほど、ガーネットはぼんやりとした思考のまま階段を黙々と降りていった。
☆
カルラの家に入ると、部屋の中はひどくシンプルで、奥の壁にベッドが寄せられており、カルラはそのベッドの上で静かに横になっていた。身体を起こしてブラウたちの姿をすぐに認識して微笑んでいたが、細められた目はほとんど目を瞑っているように見え、ベッドに同化したようにそこから動こうとせず、ハルトはある種の不安を抱いた。
セリアが一言二言話して、カルラはゆっくり頷くと、ブラウの方を見て「さあ、見てもらいたい本をこちらに」と手を伸ばしてきた。皺が多く刻まれた手の上にブラウはそっとその本を乗せた。カルラはその本の手触りを確認するように本をじっくり触った。ひとしきり触り終えると、カルラは改めてブラウの方を見た。
「それでは皆さん、この本を読んで欲しいということですが……一つ確認させてください」
「はい、何でしょうか」
ブラウが皆を代表して一歩前に出た。
「私は、ここに記されている話の内容について、おおよそのことは知っています。ですので、今のうちに忠告しておきます。この本の内容を知ったら貴方たちはもう戻れません。もうこれまでと同じ気持ちで冒険をすることや、人と接することは出来なくなるでしょう。ここには、そんな世界の真実が記されています。それでもなお、この本を読んで欲しいと願いますか?」
空気が一気に引き締まった、とハルトは感じた。カルラの口調は厳格で、ベッドの上で横になる老婆のどこにこんな力があるのかと思うほど迫力の籠った語りだった。それでも、ハルトはロッティのことを思い出した。
セリアが話した種族のうち、どれなのかは分からない。しかし、ロッティはそのどれかに該当するのではないかとハルトは確信していたし、ルイも同じ気持ちだったのだと感じていた。それに何より、ハルトはロッティのことをもっと知りたかった。話をするなら、この本のことを知ってからにしようとロッティは言っていた。ならば、ハルトの想いはもう決まっていた。
皆も、それぞれの思惑は違っているだろうが、決意は同じだったようで、めいめいに頷き合った。事情を知ったセリアも先ほどまでの緩んだ雰囲気はどこにもなく、会ったときのような暗い翳をその可愛らしい顔に落としていた。
「皆も覚悟が出来ています。お願いします、カルラさん」
ブラウの返事に、カルラは嬉しそうに微笑んだ。そして、「あくまで貴方たちが知りたいと思うであろうことに焦点を当てて読み上げます」と告げてから、ゆっくりとカルラはブラウから渡された本を開いた。